帰属すること

生きていると何かしら、どこかしらに「帰属」することが求められるというか無言の圧力というか見えない抵抗というかがあって。
いい歳まで生きている割にそれに上手く順応できずにいる。

性格上、どこに行っても何となくその場に馴染めてしまう。それが例え所謂リア充タイプだろうとオタクタイプだろうと。何となくその場にいることは出来る。
そして、それをその場の人たちは誰も怪しまないし、問い詰めない。
「君にはこういう属性もあるんだね」という風に受け取られてきたように思う。
しかし実際にそうかと言えば常に何と無く透明な壁が一枚あって、「ここは会話に困らないしここは楽しいけれど、何かしら浮ついている気がして」しまって、個人的には集中できていない。
それは幾つになってもどこにいってもそうで、この歳になっても「ここだ」という居場所が掴めずにいる。

居場所は自ら作るもので、自らを提示していかなければそれらしい密着性は得られないのだなぁとつくづく思う。
私がどこに行っても上手く馴染めた気がせずに何処か世界を遠くに見てしまうのは残念ながら長年に渡って虐めを経験してしまったが故なのだろうな、と思う。
馴染んでしまってから弾かれるのは痛いから、苦しいから。だから壁一枚隔てて世界を見る癖をいつのまにかつけてしまったのだろう。
ここを一つの居場所としよう、とするのは勇気のいることだ。
それは例えありふれた友人関係でも言えることだと思う。
居場所は維持し続けようとする真摯さと勇気が必要だ。一人では押し付けになってしまう。
そして私は居場所なんてそんなに必要ないよと言えるほど孤独に強くないし、心底寂しがりやであることがどうしようもないまでに事実だ。

そもそも、生きることは嫌いではないのだと思う。変な前向きさを持っているから。
人に対して変な希望や期待や喜びを抱いてしまっているから、生きること自体は本来嫌いではないのだと思う。
勿論、過去に意識を奪われたり持病故の焦燥感や希死念慮に囚われているときは殺してくれと願ってしまうけれど。
では何が嫌なのかと言えば、「帰属」しようとする自分が嫌で、そうでありながら「帰属できない」自分が嫌なのだ。
私の口から発せられる言葉のなんて薄っぺらいことだろうと自分に失望するし、他人の言葉の力強さに驚かされてもその言葉をきちんと受け取れずにいる臆病さが心底嫌いだ。
クラスタとか、界隈とか、そういった言葉に何となく敏感になってしまうのはいつだってそこに自分がいる気がしないからだ。

新年を迎えて、新たな界隈に足を踏み入れた私はそんなことを最近ひたすらぐるぐると考え続けている。
人は思っているよりも素直で受け入れてくれて温かい。そういうことに触れてしまったから、ほんの少しだけ戸惑っている。
こればかりは信じたいと願いながら、何処でもない何処かへとたった一人でいる方が楽なんだよなんて泣きっ面に近い顔で笑ってばかりいる。