15年目の春が来る

此処に書き残しておこう。
今年の春で、私がクマと出会って15年目の春が来る。
15年精神科に通っているということになる。
適応障害から始まったこの通院は、びっくりするほどに長く、時に戸惑うほどにくたびれる。

満足に食べられない、起き上がれない、眠れない、自傷行為が止まらない、大量服薬をやらかすという日々から、随分と日が経った。
もう正直にいえばそんなエネルギーがどこにも残っていないのでしていない。
瘡蓋を剥いでしまうという点だけは宜しくないのだが、これもまた治るだろう。
夜はそれなりに眠れるようになった。
日常では料理をしたり体を動かしたりするようにもなった。
汗をかくことは気持ちが良い、当たり前のことを当たり前に実感している。
薬もだいぶ整理された。とてもシンプルな処方になった。
過眠が強かったのが治ったのは、アトモキセチンが働いてくれているおかげだろう。
そもそも、発達の部類に該当していただなんて思ってもみなかったのだから。
そんなこんなで、私はここ1年ほどはだいぶ穏やかに暮らしている。とてもとても穏やかに。

私の体はまだ薬が無いとまともな働きをしない。
しかし、逆をいえば薬さえ飲めばそれなりに動けるようになったということだ。
ここまで、とてもとても長かった。
私は今、15年振りに生きるってこんなにも解像度が高いのか、とほんの少し驚いている。
そんな最近。

大好きな叔父

叔父が緊急入院をしたのは2月上旬だった。
呼吸困難でサチュレーションが酷いことになっていた。
それでも自力で運転をして行った。
私の父に連絡までくれた。


ALSだと下されたのが3月11日。
球麻痺型。ALSの中でも進行速度の早い嫌なやつだ。
叔父はまず呂律が回らなくなった。
どんどん呂律が回らなくなっていたことは親族もわかっていた。
本人はマスクのせいだといつも言っていたけど。
ここでALSなんじゃない?って言う人は一人もいなかった。
そんな難病に罹っていると誰が思うだろう。


叔父と私達は病院の売店前でひっそりと逢瀬を重ねた。患者も外来患者も一緒くたになれる空間が売店で、売店の外には小さなテーブルと椅子があった。
私の父は叔父の話を全然聞き取れなくて、私が通訳のようになって病院に行ってたのだけれど、遂に私も聞き取れない言葉が出てきた。
その時叔父はこう言った。
朱ちゃん、がんばってよ〜!」
ごめんね、ごめんね、と笑って手を握ると、手の神経が動かなくなっていき筋力がどんどん落ちてしまうこの病気の人の手だと思えないくらい力強く手を握り返してくれた。
そしてとてもいい笑顔で、本当にいい笑顔で、
「弱ったねぇ、こんな病気になっちゃって」
と口にした。
でも本人はまだ自立した生活も、外泊許可も諦めておらず、花見がしたいと言っていた。


その傍らで兄弟3人(叔父は父方の叔父で4人兄弟)は叔父の部屋の要るものと要らないものを区別して処分を始めていた。叔父の容態はいつ呼吸困難が起きるか分からないというのが医師の見解で、アパートの3階に居を構えている叔父に一人暮らしは無理だと親族誰もが思っていた。
しかし、叔父にしたらどこよりも落ち着く帰りたい場所。まだ、もう一人暮らしは出来ないんだよとは言い出せなかった。


軽度の肺炎を起こした時にはとてもがっかりしていた。計画していたことが全部パァだ、と。
治療にも疲れたとごちた。
本来だったら外出許可が出る頃だったので尚更だったかもしれない。
私たち親族もその日を心待ちにしていた。
少しの時間でもいいからまたみんなで集まりたい。
そう思っていたし、願っていた。


3月29日、介護認定を受けるために父が立ち会った。
帰ってきた父が焼酎を飲みながら嬉しそうに、
「あいつの体はまだ動くんだなぁ」
と口にしていたことをよく覚えている。
歩けずとも車椅子なら出てこられるんじゃないかと。


3月30日父の兄弟のグループLINEに、
「さよなら」と一文が届いた。
最初に発見したのは父。
送られてから30分が経過していた。
病院に電話で事情を聞くと朝から呼吸困難に陥っていたらしく、医師は二度人工呼吸器を打診したが本人が拒否をしたため、酸素を送り続け脳で炭化中毒を起こさせ意識を失わせるという。これが一番苦しまないだろう、と。


「今意識はあるんですか」
「あります。しかしもって1時間です」


父は即兄弟に連絡を入れて病院に向かった。
勿論私も同乗して向かった。
この前笑顔で握手したばかりだよ。
あんないい顔で笑ってたじゃん。
先ず、兄弟である父と三番目の弟が病室へ行ったので、駆けつけた私の母や三番目の弟の奥さんは病院のロビーで待った。コロナはこういう時に人を分断する。
誰も来てくれるな、と願った。
今日はこのまま帰ろうと父達が戻ってくるのを待っていた。
けれど無常にも私達を尋ねてきたのは看護師で、今回は特例ということで…と面会を許可された。
許可されてしまったのだ。
エスカレーターで上がり、病棟のロビーでお待ちくださいと言われた私達。どれほど待っただろうか。
足音がしたな、と思い顔を上げるとそこには子供のように泣きじゃくる兄弟がいた。
「早く行ってやってくれ」
それだけ呟いて、父は机に顔を伏せて泣き続けた。


病室に入るとシューッシューッという酸素の音がしていて、叔父は上下に肩を揺らして懸命に息をしていた。
各々が一斉に声をかけた。
私がかけた言葉は、「よく頑張ったねぇ」だったと思う。
つい先日握ったばかりの手を握った。もう握り返してはくれない。ただ、体温がそこにあった。
背中に汗をいっぱいかいて、まだ心臓が動いている。
この人はなんて強いひとなのだろうと思った。


病室に入れるのは3人まで。但しこういう事態なので何人来てもらってもいいと言っていただけた。
仕事が終わって到着する姪っ子もいた。
皆それぞれ、別れ際はまた来るねだった。
心臓はきっともっても一日だと聞かされていながら。
その日付き添い人になると言ったのは父だった。
叔父からしたら兄である。それがいいと思った。


3月31日
朝6時、突然痙攣を起こし心拍が一気に下がり、父に見守られる中、叔父は生涯を閉じた。




叔父は甥っ子姪っ子みんなを可愛がる人だった。
悪いことをすれば親のように怒り、心配になれば泣く人だった。
私は特に心配をかけていたようで、私の兄貴によくそれを話していたというのを知ったのは通夜の夜。
文面化したが、私はまだ叔父の死を理解出来ていない。
叔父は花見をしたいとLINEに書いていた。
正直、できると思っていた。叶えてあげたかった。
その桜が叔父の葬儀中から蕾を大きくし、今ちらちらと咲き始めている。
こんなに胸の苦しい桜の開花は人生で初めてだ。


叔父の借りていたアパートの片付けをしなければならないので、まだやることは山積みだ。
感傷に浸っている余裕が無い。
あれこれが片付いた時に、どすんとくるのかもしれない。

離婚して

最近、ここ数年の空白だった記憶をふとした瞬間に思い出すことがある。フラッシュバックなのだろうか。
恥ずかしい話、ここ数年の記憶が私にはあまり無い。
ストレス性健忘で吹っ飛んでしまったからだ。
思い出すのは結婚生活が多い。
あぁ、あんなこともあったんだなぁ。
そうだ、なんで忘れていたんだろう?
と、日々驚いている。


私の記憶の中では、元夫がとても我儘であったと記憶しているが、フラッシュバックする過去達の私は駄々っ子の子供のようでどっちもどっちだった。
私はとにかく自分に自信がなかった。
愛されるに値する人間なのだろうか?と常に疑問に思っていた。
そんな人間の相手をするのは疲れるだろう。
元夫はとても頑張ったと思う。
そして、すり減りながら愛してくれていたと思う。
離婚して9ヶ月が経ってわかったこと。
私はいつも鈍感で気づくのが遅い。


勿論、離婚を選択したことにマイナスな感情は無い。
あ、無いと言ったらちょっと嘘になる。
まだやれたんじゃないかと思うこともあるからだ。
でもその度に頭の中の過去の私が、あの時の私では無理だったよ、と囁く。
元夫に願うことは多々ある。
1番願うことは、健康でいてね。ということだ。
私たち夫婦は障害者夫婦だった。
今の元夫は薬を飲まなくても平気なくらい良くなったそうだ。
もう、戻ってくるなよ。そう心から思う。
正直にいえば、元妻が言えることなんてほとんど無い。


たくさんのごめんねがある。
たくさんのありがとうがある。
今はそれでいいと思っている。

備忘録

この所自己嫌悪が激しい。
猛烈に生きるのが嫌になったり、自嘲したり、憎悪したり感情がマイナスに忙しい。


先月、ADHDの診断が下った。
ASDの傾向もあるだろうとのこと。
ストラテラが処方された。
今のところ何か変わったかと言われたら何も変わらず、薬の効果は見られない。
そもそも、診断が下るのが遅かったくらいなのだ。
子供の頃からケアレスミスが多い子だった。
おっちょこちょい、で片付けられていた。
特にそれは勉強にもよく現れていて、よく読めばわかるものをミスしていたり、授業を時間内しっかり聞いていられなかったり、挙句の果てには就学旅行などの自由行動で、どこに行くかわからないからと手を繋がれていたくらいだ。
ASDに関しては、基本的にみんなが盛り上がっている会話の何が面白いのか分からないことが多かったり、今その場で言わなくていいことを言っていたり、空気が読めない子であった。
それで仲間外れになったりもした分、女の子の会話のパターンをいくつか覚えてこういう時はこのリアクション、という風に考えて会話をした。
あと、予定時刻にこだわりがある。
例えば、犬の散歩の時間は朝の6時半となったら、6時半よりも前には絶対に出たくない。それより遅くなっても嫌なのだ。6時半がいい。


なんで今になって診断が?というと、私が話してこなかったからである。
うつ病を長年患っているが、もしかしたら二次障害かもしれないと思い、自分の性格や経験を話したら上記のことのようになった。


今の生活はうっかりが無くなった訳では無いし、会話が上手くできないことも多いし、鬱の波が冒頭に書いたように襲ってきている。
発達障害に関連した書物を読んで尚更苦笑いをしている。
そんなこんなだが、生存はしているという備忘録。

嫁と小姑

今、2つの大きな問題を抱えていて、1つはまあ時間がかかることなのでじっくりしっかり取り組もうと思っているのだが、もう1つの問題が厄介でならない。

実は今実家に帰省しているのだが、義姉との関係悪化が私のメンタルを思いっきりぶん殴りに来ている。
元はじゃあ仲が良かったかと聞かれたら別にそこまでではないが、ある程度は話したし一緒に食事もした。
しかし今回は一切口をきいてない上に食事も別々に食べている。
その行動の理由は私の問題なのだが、流石にそこまでするか…と正直驚いている。
義姉の言い分では「話しかけられないから話さないだけ。私はそこまで意地悪じゃない」とのことらしいのだが、共に食事をとることを辞退されている側からしたらとてもじゃないが話しかけられない。

先日、義姉が2日間居ない日があった。3日目になり、寝起きに義姉の声を聞いた瞬間に体が硬直した。私の体は完全に義姉が無理になっていた。
その日は歩いていても涙が出るし、希死念慮は増幅するし、もうどうしたらいいのかわからない状態だった。
私が自殺企図を止めた友人に相談したら、
「私のことは止めておいてお前が死んだら墓石壊しに行くから今すぐ病院に行け」
と言われたので大人しく病院に向かった。
主治医は何度も何度も「どうしようかなぁ、困ったなぁ」と口にしてから、
「環境が悪いので入院はどうですか?」と提案してきた。
入院……。環境の変化のために…。いやでも退院したら元通りですけど…。
というか今入院したら年末年始病院なんじゃ…と思った瞬間から「嫌です!」とひたすら答えた。
「でも今のあなたを実家に置いておくのはちょっと不安だなぁ」
医師もなかなか引かない。結局どうするかは月曜日に決めることになった。
私は意地でも入院しない。年末年始は家で過ごしたい。何より勧められた病院のGoogle評価が1.2の時点で無理だと思った。
1.2って何したらこんな数字たたきだすんですか?ってレベルだと思う。

嫁と小姑はなかなか合わないと言ったもんだが、流石に存在を消されてるかのように振る舞われるのはきっつい。
両親は「あんたの家でもあるんだから堂々としてなさいよ」なんて言うが、私はもう嫁に出た身であるから、それなりに気を遣う部分がある。
恐らくもう義姉とは上手く話せる日はこないだろう。私自身が本当に無理になってしまったので。
とりあえず早く落ち着いた場所に帰りたい。

あの頃の私

人生で1番しんどかった時に、あまりこの言葉は好きじゃないんですがネットの中のとある界隈にひょっこり出会ってそこに半年ちょいほどいました。3年前くらいかな。
簡単に言えば、生きるのが難しい人達の集まりの中に私もいました。
もちろんそんな人間だらけなのでTLには不穏な言葉がぞろぞろ並んでいて、しかしそれは通常営業なので、
「あー、気圧だねー」
「あー、雨だねー」
みたいに流していることが多かったです。


生きにくい人たちって、往々にして承認欲求が強いので、当時誰かしらが毎日毎時ツイキャスをしていました。
Twitterアカウントがあれば誰でも出来るライブ配信です。
誰かが作業しながら配信していたり、コラボ募集といってラジオにゲストが来るみたいな2人、3人、4人配信となったり。
私も何度かツイキャスをしましたが、何故か私のツイキャスはいつも討論会になって、最長6時間という謎の数字をたたき出したことがあります。
とにかくみんなそんなふうに集まって、あーでもないこうでもないと言い合っていました。


「人の好意を受け取らないのは間違っている」的なことを言われたことを思い出します。
その好意とは優しさであるとかそういったものです。
私はその言葉にブチ切れて、当時使っていたそのアカウントを消すまでしました。
好意って差し出したら受け取ってもらえて当たり前だと思ってるんだなぁと。
謝罪もそうです。謝れば許して貰えると思っているのかな、と。
あくまでそこを決めるのは相手です。
受け取れない時は受け取れません。
受け取れる相手と受け取れない相手ももちろんいます。


今でもその当時繋がっていた人の一部とは繋がっていますが、関係が切れた人もいます。
私が当時とても苦しい時に、厳しい言葉でしたが励まし続けてくれた人がいます。
その人とは疎遠になってしまいましたが、今でもよく思い出します。元気に暮らしてくれていたらいいなぁと思います。
そんな気になるなら連絡すればいいじゃんと思う方もいると思います。けれど、その人はきっと関係性を持ちたい人と繋がり続けていくと思いますし、そこに入らなかった人間であるので気安く連絡をとっては失礼だと思うのです。


その界隈で、私は知人を2人亡くしました。
そして1人を自殺未遂から通報しました。
亡くなった一人の子はよく大学のキャンパスからツイキャスをしていて、とても穏やかな声と共に響いてくる風の音が耳に残っています。
亡くなったもう一人の子はツイキャスでちょっとした議論をしたりだとか、好きな音楽のジャンルが一緒ということで親近感を持っていたりしました。
未遂をしかけた子は今、入院しながら自分としっかり向き合おうと頑張ってます。


メンタル疾患の世界では「悪いもの同士は共にいない方がいい」というのが通説ですが、孤独を埋めるためにやはり集まってしまうものです。
私は今や殆ど関わりもないですし、当時繋がっていて、今繋がっていない人達がどうなったか知りません。
ただ、生きているなら少しでも笑顔の多い日を歩んでいて欲しいなと思います。


めちゃくちゃに病んで毎晩お酒に逃げて人のツイキャスに縋っていた私へ。
今も色々あるけど、頑張ってるよ。これからさらにひと踏ん張りだから頑張るよ。もうお酒には逃げないよ。

選択肢

ちょっと急いで決めなければならないことができて、しかしそれは今後の自分を左右することなのでとても気が重い。
今日の昼間はそれについてずっと考えていて、気付いたら考え疲れたのか寝てしまっていた。
今のままも地獄だし、未来に託すのもまた地獄のようで、これ詰んでるんじゃない?というのが率直な感想。


実は今年の記憶があまりない。
ゴールデンウィークに帰省したらしいんだけど何も覚えていない。
何しに帰ってきたっけ?って頭の中がはてなでいっぱい。
いろんなことが自分の身に起きて、これが前厄ってやつ?とか笑いながら話してるけどお祓いとかは行ってないし、人生なるようになるしなるようにしかならない。
どこをどう見ても良くないことだとはわかっていても、それに対して素直に動けない自分がいる。
人間らしいといえば人間らしいが、周りを巻き込んでまであれこれ面倒ごとは起こしたくないというのが率直な気持ち。


私、これでも結構必死に色々やってきたつもりなんだけどなぁって自分に対して思う。
でも、まだ足りないのかな。いや、そろそろ私も限界だよって声がする。
人を支えるってとっても難しい。
逆に私のことは誰が支えてくれるんだろうとかぼんやり考えてしまう。
価値観が噛み合わないと、とことん理解し合うところから遠ざかってしまう。
誰が相手でもそう。


人生1度だから自分が幸せになれる道を選んだほうが絶対にいい。誰が何を言おうと、自分の幸せを追求していいと思う。
背負わなくていい苦労をわざわざ背負う必要もない。
ここまで言い切れるのになんでこんな風に悩んでいるんだろうね。