性的価値観に対する解毒

Twitterにて書いていましたがこちらに移行します。

 

友人がくれるLINEから浮かび上がる私の性に対する歪さに自分で驚いている。愛が無くても男の人は出来るのを知ってるよ、って思うと私は全てがどうでもよくなる。

 

女も同様に、愛が無くても出来るでしょう?結果的にそれを愛の行為だというのはなんだろうな?ってなるんだよ。早く言えば感情的になった雄と雌でしょ。これをいう自分がすごく悲しいのだけれど。

 

愛の確かめ合いという性行為もあれば、感情の果てに身をまかせる雄と雌も等しくある。自分が凄く悲しいこと言っているのはわかるし、人を傷つける発想だとも思うんだけれど。あ、私は愛の確かめ合いの果てにあるものを嫌ってるんじゃない。雄と雌が気持ち悪いんだ。

 

私が嫌悪しているのは性的逸脱だ。性行為の価値観をぶち壊されて自分が歩んでしまったが故に知ってしまった醜さや汚さが気持ち悪くて仕方ないんだ。これ、カウンセリングを根気よく受けないと治らないんだろうな。雄と雌の生臭さが本当に受け入れられないんだ。汚いとすら思うんだ。

 

だから自分の体が汚くて仕方ないままなんだ。一度道を踏み外した(好きで外れたわけじゃないけど)自分を自分が一番許せてなくて。それと同じくらいそういう類のものを嫌悪してしまうんだ。ああ、わかった。これ、凄く根深いやつだ。でも認識するところまで来た。よくできました。

 

私が悪いんだと思ってたんだよずっと。あの日も私が悪かったからあんな事になったんだと思ってたけど違うわ。全く違うわ。きちんと心底嫌って憎めていたら、性的逸脱もしなかっただろうな。性的価値観歪まなかっただろうな。ちゃんと嫌って憎んで許さなくてよかったんだ。負けたらいけないと思ってた。

 

頭の回転速度に言葉が追いつかなくて頭が痛い。一度汚れたら何度汚れても同じだと私はそっか。でも汚されたんじゃなかったよ。汚れてたのは向こうの心だったよ。親友の妹を身勝手にして楽しかったか。私はこの扉を開くのに7年かかったよ。全部一本の道に繋がった。

 

どうにか出来ていた傷がまた膿んだのは、次は大事な人が性的逸脱をしたからだ。ああ、ここで私はまたわからなくなったんだ。愛し合う行為とかわからなくなったんだ。全部繋がったよ。長かったよ。始まりは全部全部7年前だ。何だか100メートルをダッシュ5本走った後みたいに疲れている。

整理整頓

新年早々から、自分の性格を覗き見ている私は精神的にMなんじゃなかろうか。と言うわけでもなく、単純に眠れないのだ。だから、書く。今まで何年も繰り返して、数年それすらも出来なかったけれどこうして夜を過ごしてきた。私には文字を残すことしかできない。逆立ちしても絵なんて描けないし、歌も作れない。ただただ、頭に湧き上がる文字を並べて文章にする他ないのだ。

 

冒頭でも触れたように新年になった。正直安堵している。私はかさぶたをわざと爪で引っ掻いて剥ぎ取るような所がある。ずっとずっとかさぶたになっていて、何ならまだ傷は膿んでいて完全に乾いていないのにそこをひたすら突いたり、剥いだりしては、「ああ、まだだ」と血を拭ってきた。2016年は私にとってそんな年だったように思う。

元々、過ぎたことを振り返りすぎる部分がある。振り返って、自分の歩んだ足跡をもう一度踏みつけ直すような。本当にこれしかなかったのか?と自問自答してしまう。結論としてはいつだって宙ぶらりんで、結果的にこれしか選択できなかったとしか言えない。本当は選択肢など無限にあるのに。他の選択肢を掴む環境じゃなかったり、対人関係であれば掴ませてもらえなかったり、逆に自分に掴む自信がなくて掴めなかったり。心底自分は弱いと思う。そしてかさぶたを何度も剥いで、剥いで、傷痕を残す。わざと残そうとする。痕になれば、一生忘れないでしょう?と、自分に刻み込もうとしてしまうのだと思う。心に対する自傷行為だ。そしてもう手がつけられなくなった頃に、「またやらかしちゃったな」って酷くなり過ぎた傷痕を見て笑う。1人で。そこには誰がいてもいけない。人を巻き込んではいけないから。自分の傷の処理に人を巻き込むことは何となく許されない気がして、傷が悪化して膿んでどうにもならなくなっても人には言わない。言えない。

 

そんな自分にもそろそろ飽きてきている。振り返るものは振り返ってきたし、振り返らなくていいものに時間を割き過ぎた面もある。もういい加減、いいんじゃない?って何となく思う。勿論、自分の認知の歪みが何処で起きてしまったかを此処には残していくけれど、別の部分のこと。もうこれは要らないね?と言えるものをきちんと整理したい。私の頭の中の棚を一掃したいのだ。あれもこれも気付けば埃が被っている。そうまでして残しておくこともないだろうと言う記憶たち。まだ並べたばかりだけど、あった所でどうしようもないというものたち。楽になるためには何だって捨ててしまえばいい。本当に必要なものは、再び手元に戻ってくるだろうから。新年というのは少しだけ魔法のようだ。現状は何一つ変わりはしないのだけれど、意識がほんの少ししゃんとする。冷水で顔を洗った後のように意識がスッキリする。

 

終わったものたちよ、さようなら。これから出会うものたちよ、はじめまして。

あの日々を宝物とは言わない

遠い過去にやらかしたあれこれと向き合おうと思う。必死に現在と向き合おうとして、逃げ場も隠れる場所も見つからないままに体当たりで生きていた頃の私の愚かで情けない生き方であり、ここまで命を繋いでくれた日々を少しだけ書こうと思う。

 

初めて自傷行為をしたのは中学2年生の冬だった気がする。気がするというのは、遠い過去すぎて覚えていないから。安全刃じゃない、貝印の剃刀。リストカットと言うよりはアームカット。一本を深々と切ると言うよりは何本も何本も線を入れていくような切り方で、Coccoじゃないけど、切れるだけ切った。何故か手首は切らなかった。時折切ってみたけれど肉のない部分はヒリヒリとする。(あ、ここ痛いんだ)って気付いてあまり切らなかった。正直、目に見えて傷があればよかったのだと思う。言葉にして言えない心の傷の痛みをただひたすらに体で表現していたのだと思う。死にたいとかそういうんじゃなく、「私の痛みはこれなんだ!」と不器用に叫んでいただけだ。

当たり前だけれど専門知識も何もない母は、当時娘が自殺するんじゃないかと思っていたそうだ。だから、ゴミ箱は漁られた。血痕のついたティッシュを探すためだ。剃刀は片っ端から捨てられた。それでも、制服のポケットにしまった剃刀だけは死守して生きていたあの頃。今ではもう随分薄くなったけれど、それでも日焼けをすれば浮き出るし、夏になって腕を出すと白く跡になっている。この癖は専門学校に通う頃も続いていて、切る場所は二の腕や太ももなど広範囲に及ぶようになっていた。単純に切れればいいのだ。切って一瞬の高揚感に任せてやるべきことをやれる勢いに乗れればそれでよかったのだ。私が最後に剃刀を持ったのはまだ今年のお盆が終わりで、完全に治ってはいない。

 

初めて薬を過剰摂取したのは専門学校の2年生の時だった。あの頃の記憶は殆どない。毎月のように迫り来る検定と、模試。その頃の私は持ち物すらも覚えることができなくなっていて、就活セミナーのようなものがある為スーツで行かなければならない日に私服で電車に乗り込み、学友を見てやっと気付いて一度家に帰るねと言ったまま学校に行かなかったりした。行かなかったというよりは行けなかった。駅で何度も寝落ちをし、電車でもまともに降車出来なかったから。そんな日々だったので記憶が殆どないのだ。

相変わらず深夜まともに寝付けず、ふと好奇心が湧いた。その頃には通い出した精神科で出された睡眠薬を1シートずつそれぞれを並べて、プチプチと掌に乗せて一気に飲み込んだ。(全部飲んだら、どうなるんだろうな?)何錠あったんだろうか。そのあと覚えているのは強烈な吐き気と、強烈な目眩のような視界の揺れ。トイレにガタガタしながら駆け込んで指を突っ込んで吐いた。だって別にこんな風になりたいわけじゃなかったから。ほんの好奇心なだけだったから。幸いまだ起きていた兄の部屋に駆け込み、「ごめん、病院だわ」と告げて、その後思い出せるのは点滴の刺された腕と、当直の麻酔科の先生。私は何故だか麻酔科の先生に泣きながら「もう無理なんです、無理なんです」と身の上を話していた。麻酔科の先生にしてみたらいい迷惑である。それから数ヶ月、私は自分で薬の管理をさせてもらえなくなったのは仕方のない話。しかし病院にぶち込まれなかったのはラッキーだったなと今でも思う。

 

最大にやらかしたのは、専門も卒業してから。不眠がピークになり、3日ほど眠れていなかったところに当時の彼氏のお家に泊まりに行っていた。眠剤もすっかり飲み干してしまっていた私は、風邪薬の眠気に頼れば眠れるのでは?とワンシート一気に飲み干した。そして横になったら記憶消失。気付いたら救急車に乗っていた。病院で痙攣どめを打たれて帰宅。我が家に帰ってきて二度目の意識消失。今度は呼吸も止まったらしい。そしてあえなく検査入院。結果は薬物の摂取もあるし、脳波もそれらしいものは出てこないので何とも言えないがストレスが溜まりすぎた結果のてんかんではなかろうかと。そこから私は2年間車の運転を没収された。

 

時系列は違うが、性の逸脱もあった。前回の記事の経験をきっかけに、私は男性に対して壊れた。要は世界は棒と穴が全てなのだろうと思ったのだ。笑う、笑わせる。触る、触らせる。抱く、抱きしめる…繰り返し繰り返し演目のように繰り広げられる虚像の世界。相手が本気になればなるほど私は内心で笑ってしまった。くだらないね、馬鹿馬鹿しいね(本当は悲しいよ)。好きな人ができたこともあったけれど、好きな人とする性的行為は苦しかった。汚れた身体でするものじゃないのに申し訳ないと頭の中が謝罪でたくさんになった。後遺症は今でもある。私は今でもふとした時に強烈な性嫌悪に襲われる。女でなく男でもなく何者でもないものに生まれたかったと強く思う。性的な匂いのしない場所へ行きたいと思う。そして今でも好きな人に抱かれれば頭の中が罪悪感で溢れることがある。性的なことと仲良くなれない。

 

正直、書いてないことが他にも山ほどある。車を廃車にしたこと、大型トラックと衝突事故を起こしたこと、駅のホームで何度吐いたかわからないこと、専門学校に通いながら授業中にロビーでひたすら寝ていたこと、あちこちにピアスホールを開けすぎたこと、3日眠らずに学校に行っては1日眠ったまま起きれなかったこと、解離が酷すぎて記憶がない時期が多いこと…。

今は服用方法をきちんと守って薬を飲んでいる。二週間に一回という通院ペースは変わらないけれど。車の運転は最低限しかしないし、なるべく1人では乗らないようにしている。勿論診断書を提出した上で法的に認められながら。大発作で入院した日から数年経ったけれどあれ以来発作は一度も起こしていない。

生きるために、体を傷つけてきた。ただ生きるために。生きるにはそれ以外の方法が見当たらなかった。教科書も何もないから。あちこちぶつかって、痛いと知って、苦しいと喚いて、ここまで歩いてきた。正直、若さゆえのエネルギーでここまできたのもある。あと私の体のエネルギーがどこまで保たれて、どこまで続いてくれるかはわからない。けれど、それでも、まだ生きてみよう。今度は体当たりじゃなく、頭を使いながら。

愛されたいのは誰よりも強いのだけれど

わたしは「男女の関係」にあまりいい感情を持っていない。何故なら、簡単に言えば信頼していた関係にレイプされたから。あの日以来とても簡単に人間は理性を超えて動物になると知ってしまったから、私には理想がない。

男は時に簡単だなと思う。求めることに答えたらあっという間に所有した気になる。こちらの感情などお構いなしに満足してしまう。あっという間に。正直、ちょろいなと思う。愛さない関係性のなんと虚しいことか。私はそれを知っているから馬鹿馬鹿しくて笑ってしまう。全ては虚構なのにそんなにも満足しているあなたは何なのかと笑ってしまう。そんな自分を悪魔だと思う。男の前で飾るのは何で簡単なんだろう。だって、求められているものは全て提示されているから。それの何て虚しいことだろう。私は神でも仏でもないただの女なのに求められていることが何て多いのだろうか。

肌が触れ合えば満足する。言葉が通じあえば満足する。その場が楽しければ満足する。色々ある。一つ一つに求められている顔があり、その顔をしてしまえばあっという間に求められた顔になり得るのだから笑ってしまうね。くだらない。何もかもくだらない。馬鹿馬鹿しくて笑えもしないのだけれど私にこの価値観を植え付けた経験はもっとくだらないのだから仕方ない。

だから私は確かな言葉を求めてしまう。その人にしか表せない言葉を。それが我儘だと知っていながら、そこにしか安心を抱けない自分が時に情けない。言葉しか信頼できない自分の何と弱々しいことよ。そしてそれを相手に求めてしまう我儘さに嫌になる。

人間は時に動物のようになれてしまうから。猿のようだ。性欲のはけ口に今までの思い出なども殺して相手を襲うものだから。例え自分の立場がどんなであろうと。弱い立場を逆手にとって満足してしまう生き物だから、性の重なり合いに重要性を見出せない。その性欲を満たしたいだけでしょうと、どうしても私は諦めてしまう。諦めないことなど稀で、好きな人の時は申し訳なくなる。自分が既に汚された人間のようでただただ申し訳なくなる。綺麗な人を抱いて愛してくれよと泣きたくなる。それ程に力任せの勝手な行為は罪だ。

私はまだあの日を言語化出来ない。あまりにも恐ろしくて虚しくて力無い自分が情けないから。そんな私をいつかまるっと抱きしめて君でいいと愛してくれる人を待っているのかもしれない。私はあまりにも弱い。私から愛することを臆してしまった人間だ。あの日に色んなもの失ってまだのうのうと生きている。男はなんてチョロいのだろうと笑いながら。

どこにでも行くから許して

自身の周りの人に問題が起きた時に、自身に関係がないことでも体がこわばってしまう。そして頭の中を「ごめんなさい」が覆い尽くす。

私がいるから何か起きたんじゃないか、私がいるからそれは問題化したんじゃないか、私がいなければ何も問題など起きずに平和なんじゃないか、とずっとずっと考えてしまう。こうして文字にしていると自意識過剰も甚だしくて何を言っているんだろうと思うのだけれど、頭の中が騒がしくて仕方がない。

 

幼少期から自身の人間関係を振り返ってみると、平和だった時間があまりない。平和になったのは、一般路線を降りて通信制の高校に通い出してからで、それまではずっといじめが身近にあった。物心ついた頃には、近所のリーダー格の年上のお姉さんから酷く嫌われていた。それが何故だかわからなかった。私はそのお姉さんが大好きで一緒に遊びたくて仕方がないのに、露骨に輪から追い出されてわざと我が家の前できゃっきゃと遊ばれていたのを家の中から泣きながら見ていた。その近所のお姉さんは一人っ子で、兄がいて何かあると助けてくれる存在というのが羨ましかったようで、要は私に兄がいたからという理由で私は何年も何年もそういった扱いを受けていたようだ。

小学校に入って、女の世界が構築され出した頃、私はやはりまた輪から外れた。女の世界特有の共通認識が私にはあまりわからなかった。何故、思ってもいない言葉に同意し合うのか。何故、クラスに階層のようなものが出来てしまうのか。何故、誰か1人が特別っぽく人を束ねるのか。私の頭の中ではいつも何故が溢れていて、そこを徹底的に突かれた。何度無視をされただろう。何度土下座させられただろう。何度悪口を聞こえるように言われただろう。何度話し合いというしても無駄な場に駆り出されただろう。中学は前に書いたとおりである。

そういった環境に慣れすぎて、自分がいる事によって問題が起きてしまうという自己認識になってしまっている。だから、平和な空間はあまり得意じゃない。いつかこれも壊してしまう気がして居心地が悪い。好きだと言ってくれる人が怖い。いつこの人も私を切り捨てるかわからないと勘ぐってしまう。不穏な空気が怖い。やっと掴んだ束の間の平和があっという間に地獄に変わる気がして。

 

人と人の繋がりは素晴らしいと言うけれど、人は怖い。人は簡単に人を歪ませて人を壊してしまう。「私がいなければ平和なんだよね」って言うけれど、本当はもう人によって傷つくのがお腹いっぱいなだけ。傷つく前に逃げてしまう方が楽だと気付いてしまっただけ。生きていくには人とぶつかり合わなきゃいけない時も勿論あるのだけれど、今までに無駄な事でぶつかり合いすぎてぶつかる心が残っていない。あちこちひび割れてどうしようもなくなっている。何度でも謝るから、どこにでも行くから、お願いだからもう怒らないで。もう何も言わないで。此処から居なくなるから許して。ごめんなさい、ごめんなさい。

 

私の認知の歪みはどこから手をつけていいのかこの歳になってもまだわからないでいる。

続:冬は私を殺そうとする

私が何故あのような立場になってしまったかを書かなければならない。

 

私は可愛くない後輩であった為、元々先輩方からの評判はすこぶる悪かった。たった一つ学年が違うというだけで権力をこれでもかとかざし、理不尽に後輩を詰める姿が大嫌いだった。大抵そういうことをしている先輩は自分のことを棚に上げて自分がやられてきたことを後輩にする事で安定を図っていたのだろう。とにかく私は先輩受けが非常に悪かった。愛想がない、可愛げがない、媚びない。中学生活の女子の上下関係で必要なことを片っ端からやってこなかった自分が悪いとも言える。嫌われて当たり前だ。

 

もう一つは学年に1人はいる先輩に非常に可愛がられながら学年全体を先輩の力を借りつつ統治しようとする権力ある生徒と根本的に性格が合わなかった為、仲が険悪であったという点がある。しかし当時彼女の逆鱗に触れるようなことをしたかと言えば本当にしていなくて今でもわからぬままだ。これか?と思えるものが一つあるのだが、彼女の恋している男子生徒と私はとても仲が良かった。それが気に入らないのか休み時間になるたびに我が教室まで監視に来ていたほど。鈍い私は当時彼女がその男子生徒を好きであることを知らず、何しに来ているんだろう?と思いながらその男子生徒とくだらないやりとりをし続けていたのが悪かったのだろうか。それくらいしか彼女との間に何が起こるとしたらあり得ないのだ。

 

これだけは確かなのだろうなという理由が一つある。女子中学生という世界は幾つかグループがあり、そのグループの中で生きるわけだが、とにかく悪口がすごい。1人の生徒がトイレに行くと居なくなればその人の悪口を言いだす。そしてトイレから戻って来たら何食わぬ顔でまた話し始める。それを延々繰り返す。居ない人間の悪口を言いながらもグループでいることをやめない。当時の私はそれがストレスで、

「悪口を言い合ってまで一緒にいるのって疲れないのか不思議で仕方がない。私は疲れる」

と言葉に漏らしたことがあった。他の人間から後から聞いた話では私のその一言が教室から追い出す理由となったらしい。触れちゃいけない部分に触れてしまったんだな、と今ではわかる。しかし教室から追い出され、話し合うことも拒否されるほどの事だっただろうか?と思うと違う気がする。話し合いの場ではっきりとお前がそう言ったんだろ!と面と向かって言える事ではないか?私と向き合うのが怖いってそれ後ろめたい感情があるからでは?と思う。

 

以上が前回の記事の補足である。私に非があるとしたら正直ここまでしか書けない。何故ならこれ以上思いつかないから。

 

ちなみに、メールの件は何故か教師が動き、先輩と私で一対一で話し合いの場を設けられた。メールの和睦をさせるために設けたのだが、一番最悪な方法だったと今でも思う。心にも思っていない謝罪を受け、教師が目の前にいる以上私は許さざるを得ない。たった5分で、人格否定までされ脅迫まで受けたメールの問題は片付けられてしまった。その後メールは止まったが、いたずら電話は鳴り止まなかった。いたずら電話に関してはもう、教師に相談する選択肢を選ばずただ聞き流すことを選んだ。誰も助けてはくれない。学んだのはそれだけだ。

脅迫の内容は「男子にお前を犯させるぞ」というものや、「男子がお前を殴りに行くぞ」という力では到底勝てない事ばかりだった。その頃からだと思う。私の男性不信が始まったのは。性嫌悪や、男性不信のきっかけは間違いなくこの言葉だろう。「死ね」なんて当たり前で、「学校のゴミだ」「二度と家から出るな」「気持ち悪い」「クズ」……並べ出したらキリがない。それも5分の心無い謝罪で終わり。世の中ってとってもチョロいですね。

 

卒業したこの件に関わった先輩たちは、卒業後校舎に入ることを許されなくなった。職員会議でもそれなりに大きな議題として扱われたのだろう。けれど違う、何もかも違う。私が求めたのは、彼らが卒業する前に動いて欲しかったのだ。きちんとまだこの学校の生徒であるうちに適切に裁いて欲しかったのだ。けれど、いつだって教師は後手に回る。

 

いつの日だったかある教師が私に言った言葉がある。

「お前は強いな。1人なのに強いな」

いいえ、私はもう精一杯です。本当は泣きたかった。本当は暴れたかった。本当は胸ぐら掴んで殴りかかりたかった。全部全部、ことをこれ以上荒だててはいけないという気持ちの中に押し殺したのです。本当に強い人間だったなら、良かったのにと今は強く思います。私は強くありませんでした。私はあの日々に壊されてしまった、ただの弱い人間でしたよ、先生。

冬は私を殺そうとする

「生きづらさ」を抱えるきっかけとなった季節が巡ってきた。10年以上経ったのに今でも鮮明にフラッシュバックする。

土曜日だった。携帯電話にメールが届いて確認しようとしたら知らないアドレスのようだった。イタズラかな?と思って開いたら、暴言、罵倒の言葉が並んでいた。きちんと私宛に。それからわざわざその為にアドレスを変えたであろうメールアドレスからメールが何通も届いた。どれもこれも罵倒と暴言、時に脅迫の嵐。何が起こっているのかわからなかった。ただ一つわかったことは、これは同窓生ではなく先輩であること。文面ですぐにわかってしまった。(そうだ、近所に他のクラスの担任がいる。相談をしに行こう)置かれている状況にしては意外と冷静に相談しに行ったように思う。教師は届いたメールに目を通し、「わかった、とりあえず反応はするな」とだけ答えた覚えがある。なので日曜日の記憶はない。

土日が明け、普通に登校した。そして教室に入った瞬間、明らかに普段と違う様子であることを察した。教室に入った瞬間の空気、声をかけた瞬間に散らばって行ったいつも共にいたはずの友人たち、まるで存在していないかのような教室内での私。誰1人話しかけてこない。誰1人目も合わせない。

三限までは耐えた記憶がある。けれどもう居る意味がわからなかった。此処に残ったところで、この教室に私の存在はない。それはあまりにも明らかで、それならば帰ろうと思った。いじめは初めてではなかったから帰る選択肢を選ぶことも躊躇いはしなかった。小学校で終わったと思った地獄が、また始まってしまっただけのこと。またか、というのが本音だった。

10分休憩の間に帰ろうとしていた私を見つけた他のクラスの女の子が、コソコソと私に声を掛けてくれた。「何があったの?よくわからないけどうちのクラスで貴女の悪口を大声で言ってる!」ああ、今度はクラスだけでなく学年全体に飛び火しているのかと知った。先輩、同学年と並んだ規模は流石に初めてだな、とぼんやり思いながら雪道の中帰った。

家に帰ってまずしたことは、夜に片っ端から私を敵視しているらしい同窓生一人一人に電話をかけて何が起きているのか話を聞き出すこと。半分以上が「貴女に関わると困るから」と電話を一方的に切った。それでも中には「先輩が動いている以上逆らえないんだ」「そもそも貴女が悪いと聞いている」と情報を出してくれる人もいた。誰1人味方になることは無かったけれど。

 

正直、そこからの記憶は途切れ途切れだ。気付いたら私は使われていない教室をあてがわれて、この部屋に登校しろと言われた。教室は辛いだろうという配慮をしたつもりなのだろう。しかし私にしてみたら何故何も悪くない私がこんな使われていない部屋に押し込まれて隠れるように生きなければならないのかがわからなかった。その教室にいても教師も誰もこない。来たとしても給食を運んでくる時だけ。何かプリントが配られるわけでもない。独房のようだと思った。旧校舎の一番生徒が利用しない階にある使われていない教室。

一度せめてクラスの人間と話し合いの場を作らせてくれと懇願したことがある。何故こういうことになったのか本人達の口から直接聞きたかった。教師は「一応向こうの意思も聞いてみる」と乗り気でなさそうな返事をしながら動いたが、結局「向こうがお前に会うのが怖いというからお前には会わせられない」と断られた。違う、本当は怖いのは私だ。多勢に無勢なのは私だ。どんなに自分が傷つこうと何を言われようとそれでも聞き出したかったのに、何一つ叶わなかった。

事が起きたのはちょうど修学旅行のある学期で、「お前は先生達と行動したらいいよな」と言われた。その時には最早私はどこのクラスにも属していないかのような扱われ方だった。クラスに戻してもらえる気配もない。話し合いをさせてくれる気配もない。ただただ時間が経過していくばかりで、私は腫れ物のような存在であった。「いえ、いいです。私は参加しません」その日を境に私はあてがわれた教室に通う回数が減った。学校に行かなくなっても学校側から電話が来ることも特に無かった。

 

そうこうして問題に関わった先輩達は華やかに卒業し、自らが最高学年になった春のクラス替えはあからさまな配慮のなされた生徒の配置だった。私の置かれたクラスはあまりにもわかりやすく問題の少ない生徒で構成されていた。それが教師のやれる精一杯だとでもいうのかと笑ってしまったことをよく覚えている。晴れて独房から解放された私は新たな教室にきちんと通った。けれど、ひと学期教室に来ていない人間が教室に戻って来たというのは大きな衝撃を与えたらしく、人が避けて道ができるというのをリアルに体験した。

イジメに加担していた人間達は醜かった。「心配してたんだよー!」「やっと来たんだね!」と耳に刺さるかのような甲高い声で私に声をかけてきた。私は知っているよ、貴女達がどれだけの事をしていたか。私が援助交際をしているという噂を学年にばら撒き、当時流行っていたアイプチで元々二重の線がうっすら入っていた私は長く使わずとも二重になってしまったのだけど、元々のこいつは不細工だと小学生の頃の写真を男子の中に流したことも知っているよ。「あいつは今頃引きこもって豚みたいになっているんだろう」と私の悪口を言い合う事で結束力を高めあっていた事を私は知っているんだよ。我が家にイタズラ電話をかけてきていた先輩にくっついてその場で笑っていたのも知っているよ。私だけでなく私の家族のことまでもこき下ろして馬鹿にしていたのも知っているよ。何も耳に入っていないと思っていたかな。

学校に行くためには剃刀が手放せなくなった。教室にいるとあまりにも意識が飛びかけてしまうから、トイレにこもって腕を切って頭を覚醒させた。時折加減を間違えてブラウスを真っ赤に染めてしまって保健室のおばさんに怒られ、ブラウスを洗ってもらってしまったりした。教師は最早何一つ信頼できない存在でしか無かった。何を言われてももう説得力が無かった。あなた達は私を一度も守ってくれませんでしたね。ただ嵐が過ぎるのを祈って待っただけで、独房に閉じ込めた私の様子など御構い無しでしたね。

 

あの時もしも1人でも私の言うことを真剣に聞いて、私の意思を尊重しようと動いてくれる大人がいたら、私はここまで心を閉じなかった。例え私の願いが叶わぬ形でも、必死に動いてくれている姿が見れていたなら、それでよかった。たった1人でもよかったんだ。雪が嫌いなのは、1人独房から外を眺めていた日々を思い出すからだ。誰も訪ねてこない、私が居ようが居まいがどうでもいいようなあの部屋でただぼんやりと降り積もる雪を眺めていたあの日々。壊れた備品や使われなくなった教師のデスクで溢れた独房。あの部屋は使えないものを詰め込むための部屋みたいだったよ。私はそんなに救う価値がありませんでしたか。私は確かに気の強い生徒でしたけれど、こいつなら放っておいても壊れないと思ったのですか。

 

あれから10年以上経つ。私は今でも冬が嫌いで冬が怖い。自傷癖も完全には治っていない。人間不信も、自分の顔に対する劣等感も、体型に対する恐怖も、人との距離の取り方も、何一つ治っていない。精神科に通い始めて10年が経った今、治療の終わりは見えない。