あの日夢見た景色はとても美しかったよ

私の生殖機能は人よりも乏しい。
十代の時に月のものがおかしくなって婦人科を尋ねたら呆気なくそれは宣告された。
「君は子供が欲しかったら治療が必要だね」
十代なりにその言葉の重みは理解できた。
その時に永遠を誓い合う結婚というものに対する希望を半分失った。


「治療をすればできるんでしょう?」
「どうしてちゃんと婦人科に通わないの?」
「子供は可愛いよ、諦めないで」
どれもこれも言われた。大抵お腹が膨らんできた妊婦の友人で、何一つそこに悪気はない。
わかっているから何も言えなかった。
子供は可愛い、それはとても素晴らしいことであんなにも無垢で価値観の形成も他者から吸収することで覚えていく生き物はある意味怖くて、けれど生命というものはとても神秘的で。
考えたことがないわけじゃない。
寧ろ、セックスをして当たり前に出来る体よりも考えたと思う。
考えに考えた末に残ったものは両親への罪悪感と、女性としての未熟さの情けなさだった。
そこにプラスして私にあるのは精神的な病で、どうにもこうにもそれは揺るがなくて。
精神科を尋ねた最初に言われた言葉に対する自分の気持ちをまだ覚えている。

「安心して。子供は産めるよ」
(先生、私の体は治療をしないと子供ができないので大丈夫なんです)

周りは当たり前に治療を提示する。
そういった人達は誰もその意味を深く考えていないのだろう。
「治療」という本来必要のない筈の段階を踏まないと子を授かれないという意味を。
それがどれだけ女性として生まれたことの意味をことごとく削り取っていくのかを。
別に女性として生まれたからには子を授かれとは思っていない。それは個々の自由だ。
けれど、それが当たり前に出来る体ではないのだと言われることはやはり後ろめたい。
月のものは当たり前のようにくるけれど、そこに排卵という機能が伴っていない出血を繰り返す虚しさは伝わるものではないのだ。
毎月すり減る。心の何処かが着実に削れていく。


今でこそあえて子無しを選択する夫婦も増えてきたし、不妊治療も珍しくなくなった。
それでもやはり、どうしても、圧倒的に当たり前に授かれる人間に対しての壁は大きい。
そして、「子供なんていなくても大丈夫」という言葉を簡単に口にする男性を信用できない。
何故なら男性は本能的に種を残していこうとする生き物だから。
何より、「子供が欲しい」と一度は言われて別れを経験しているから。
そりゃあ、そうだよね、と頷くことしかできない。
そして不妊治療はお金がかかる。お金が無ければ何も始まらない。
私の体の未熟さで本来かからない筈のお金を掛けさせる申し訳なさも大きい。
健康な体というのは、尊いのだ。とても。とても。


まだ自分の体の未熟さを知らなかった頃に夢を見ていた。
好きな人との間に出来る子供はとても愛しくてそれはなんて尊いことなのだろうと。
あの日夢見た景色はとても美しかったよ。