生きることは遠く、しかし心臓は揺れる。

はてなブログを2つ使っているのだけれど、あちらでは重いことをあまり書かないことにしているのでこちらに書き残そうと思う。
実はこの所結構安定していた。自分のための投資をしてみたり、物欲があったり、それなりに人と笑い合えたりが出来ていた。出来ていたので焦燥感と希死念慮がほんの少し距離を置いてくれていた。しかし、昨日から私の頭の真ん中から退かずにいる。しっかりと胡座をかいて座り込んで離れない。柔軟性のない頑固親父が帰宅したかのようにどっかりと座り込んでいる。
「あ、きた」と思った。この感覚、私少しだけ距離を置けていたのに帰ってきちゃったんだ。次はいつまで続いて、次はいつほんの少し私に呼吸をさせてくれるのだろう。

正直、こうなると文字が書き残せなくなる。何を書いても何処か遠く、ぼんやりとしてしまう。確かな私の言葉として残せない。何処かの誰かが書いているような、漠然とした離人感。私を私として文章の中で構築できない。それがとても寂しい。私は書きながら私に会いに行っている。私の内側にいる座り込んで耳を塞いでしまった私に会いに行っているのだけれど、離人感が出始めると私に会えなくなる。この離人感は内側の私からの面会の拒絶なのかもしれない。

死にたいかと問われたら、違うんだと思う。言葉通りに受け止めるとしたならそれは違うのだと思う。疲れてしまったのかと問われたら、概ねそうだと言える。何に?と問われたら、生きること、になる。けれど、死にたいのではない。どちらかというと、生きている感覚がもう既にしないのだ。私は生きているのだけれど、確かに心臓は動いているのだけれど、では心臓が動いていたらそれは生きていると定義されてもいいものなのか?生物学的な話じゃなくて、文化的な観点から考えるに、それはもう死と同等のような気がする。それでも心臓は忙しなく揺れ動く。一刻、一刻。何故この心臓はこれだけ痛めつけられても確かに動いてしまうのだろう。心臓は図太い。

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