「あなたは薄情だよね」

通信制の高校に通っていた時代の話だ。私の隣にくっついて離れなかった可愛い子がいた。基本的にその子とスクーリングを受けていたけれど、私は他にも友人を作っていたので他の友人とも話した。スクーリングは月に2回だったし。それが可愛いあの子は気に入らなかった。

「こんな私が嫌なら一緒にいなくていい」

と泣いて走って帰って行った姿を見たことがある。それを一緒に見ていた体育教師が、「追いかけてあげないのか?」と聞いてきて、私は素直に答えた。「あそこまで感情的になった人間に何を言っても仕方ないし、言い逃げなのだからどうしようもない」と。そこで初めて私はその言葉に出会う。

「君は、薄情な人間だね」

家に帰って辞書を引いた。愛が無いだとか、思いやりに欠けると書かれていた。じゃあ、あそこでドラマのように追いかけて何が起きる?上手くいくか?いや、そんな簡単じゃ無い。何故なら、私には私の人間関係があり、それは誰にも咎められるものでは無いはずだからだ。だから私は全てを投げ捨てて可愛いあの子を追いかけることは出来なかった。求められても応えられない時があるのは確かだし、私への依存が上手くいかないからと私に感情を発露させても私が答えを持っているわけじゃ無い。現実はそういうものだけど、時に人はドラマのように追いかけろと言うから不思議だと思った。後に想像できる感情任せの言葉のやりとりのタイミングが今であるべきかどうかなど、周りは何一つ責任を取ってくれない癖に。

 

2人目もやっぱり私が想いに応えられないと知ってから起こした行動がきっかけだった。私は当時まだ腕を切らないと学校に通えなかった。それを知っていた彼は当て付けに自分の腕を切り始めた。そしてすれ違いざまに笑いながら私に見せつけてきた。この時ばかりは私も怒った。2人きりになった放課後の教室で、自分の体に傷をつけると言う意味がどういうことか考えたのか。私の傷とお前の傷を同列にするなと。本当に死にたいなら切る場所はそこじゃない、と。その時もまた言われた。

「貴女は薄情だね、心配もしてくれないんだ」

当て付けに切り始めたことがわかりきっているその傷を心配できる程私は優しくないし、残った傷と共存していく覚悟もなく切っているのだとしたらどうしようもないし、血を見せたら優しくしてくれるなんて甘く見るなよと思う。向き合って怒ってもらえただけ幸せだと思えよ、世間は目も当ててくれないぞ。私はそれを知っている。誰も助けてくれない。

 

最後は確か当時付き合っていた恋人の甥っ子に発達障がいの疑いが見えた時だった。私は自分の生きづらさから経験した社会と現実を伝え、発達障がいを疑うならいち早く専門の病院に行くしかないと話した。その時もやはり言葉は違えど言われた。

「冷たい言い方をするよね」

私のどの言葉が冷たかったのかまるでわからなくて、呆然とした記憶がある。でももし、本当にあの子が発達障がいだとしたら今後一番辛い思いをして行くのは家族以上に本人なのに。定型の私ですら生きづらくてたまらなくてはみ出して生きて、はみ出した結果の苦しみがこれだけ大きい。ならばそこに発達障がいが加わったなら本人にどれだけの負担になるかと考えたら、とてもじゃないけれど私は単純に「心配しなくて大丈夫だよ」とは言えなかった。

 

私は大切な時ほど言い方を間違えてしまうらしい。大切だと思えば思うほど。わかって欲しいと願えば願うほどに私の言葉は冷たくなるようだ。受け止めるものは受け止めてきた。受け止められるだけ受け止めてきた結果に出る言葉だとしてもやはり冷たいのだと言う。だって現実はドラマや映画と違うんだもん。熱量だけで乗り越えられるほど簡単に出来ていないんだもん。熱量だけで乗り越えられると信じていた頃もあったけれど、ことごとく駄目だったから。一発逆転なんて未来は何処にもない。チャンスなんて滅多に落ちてない。ただ、此処にある現実と向き合っていくしか、私は方法を知らない。他に方法があるならば教えて欲しい。本当は私だってこんなに痛くて苦しくて辛いものは見ていたくない。けれど、まずはそれを受け入れないと何もスタートしないんだ。現実と向き合う時、夢を語ったらいいのだろうか。けれど夢は夢だよ。ならば、今確かであることを話した方がいいと思ってしまう。信頼している人ならば尚更。きっと夢も大切なのだろうけれど、確証のないことを言うことが怖いのは、未来が未知すぎるからだ。思いもよらない事が起きることが現実だと学んできたから。

 

あの子を追いかけていたら何か変わっていたかな。彼の傷に寄り添っていたら何か変わっていたかな、心配ないよ、大丈夫。と笑っていたら違ったかな。あの日々を私は何度も頭の中で繰り返す。大切だからこそ追いかけられない時があった。そんなやり方でしか気を引けない相手を悔しく思うから言えない言葉があった。大切な子で、自分の見てきた世界の冷たさを知っているからこそ要素があるとしたら冷静にしか話せない事があった。けれどこれも言い訳なのかもしれない。上手く出来ない私の言い訳。

 

言葉に疲れるのはこういう時だ。それでも私はまだ相手を信じて私なりの言葉を送る。貴方ならわかってくれると信じて。