家庭のお話

両親共働き、祖母在宅の家庭で育った。
私達3人兄妹の躾親は祖母だった。
両親は共に家庭より仕事にウェイトを置いており、週末には飲み会に出かけた。

私の記憶にある頃には当たり前のように母は新興宗教の勉強をしていた。それ以外では仕事熱心な人で職場の人とよく飲んでいた。帰ってきては会社の上司の愚痴をこぼしていた。新興宗教の勉強を一緒にすると褒めてもらえたので褒めてもらいたくて一緒に勉強をした。
父の記憶は正直あまりない。家でビールを飲んでいる姿はわかるのだが、何を話していたかわからない。そもそも、父は家庭であまり話す人ではなかったのかもしれない。
祖母は無口な人だった。そして、愛想のない人だった。叱る時は叩くし、逃げれば追いかけ回される。ちょっと口答えをするだけで叱られた。けれど、理不尽に怒られたことはなかった。私達3人兄妹は年がそれぞれ離れているが、毎日祖母から与えられるお菓子は皆同じ量で同じものだった。年上だからたくさん、という意識がなく、皆平等の人だった。
我が家を出入りする新興宗教の人にも黙って自分の作った煮物を差し出してもてなした。
毎朝野菜を売りにくるおばあちゃんはお茶飲み仲間で朝から昼までお茶を飲んで笑っていた。

そんな祖母がくも膜下出血で倒れた日、我が家は色んなものが崩れた。私が9歳の時だった。
母は救急車が出ようというときに会社からタクシーで間に合い救急車に飛び乗ったまま80日間家に帰ってこなかった。
その日から家事は父が全てを賄った。
長兄はバイトに逃げた。次兄は中学に行かないことを決めた不登校だったのでゲームに逃げた。
学校から家に帰宅したときに家の変化というものを嫌でも痛感した。電気がついていない。おかえりという声がない。いつも黙って座って相撲を見ている大好きな祖母がいない。母は帰ってこない。長兄もバイトで遅い。次兄は部屋に籠っている。父は帰ってきてから慌ただしい。

生活に変化があった直後から自律神経が狂い、吐き気が止まらなくなった。
学校を休みたいと父に願い出たが叶わず、自分で電話をして頬を叩かれたこともあった。
家に置いておくのは不安だからといとこの家に数日預けられたりもした。地獄だった。私は自宅でせめて次兄の隣に居たかった。
知らないうちにいとこと同じ学校に転校する話まで出て居た。それはなんとか免れた。
結局私の不登校は、担任が家に迎えにきたことによって終わった。子供心にそこまでされたらどうしようもないと思ったからだった。

祖母は死の淵を何度もさまよって、何度も手術を繰り返して、病と闘った。
入院した翌年の春、奇跡的に退院した。しかし寝たきり、痰の吸引が必須、体位交換必須、という24時間介護の始まりだった。
母は仕事を辞めた。
その頃から私は学校でいじめを受け始めた。嫌な時期と重なったものだ。
家に帰れば母がいる。しかし24時間痰の吸引と2時間置きの体位交換に満足に寝かせてもらえて居ない母だ。いじめのことは言えなかった。
父も休みになれば積極的に介護をして居た。
まだ介護認定が始まったばかりの頃で、ここまで重度の寝たきりをデイサービスがなかなか受け入れてくれなかった。
母の愚痴は学校から帰った私が聞いた。どんどん無くなっていくお金の話。病院で祖母がどんなに苦しんで居たかという話。頼れるのは貴女だけという話。
私が頑張って母を支えなければ母が壊れてしまうと思った。だから痰の吸引から体位交換からオムツ替えまで何でも手伝った。私も寝床を祖母と共にした。

学校でのいじめは変わらなかった。けれど、私には母と祖母を救わなければいけない使命があるという強い気持ちだけで生きていた気がする。

介護は私が12歳になるまで続き、12歳の冬に祖母は眠りについた。
いじめは激化していた。今でも不思議に思う。なぜ1日も休まず学校に行ったのか。
恐らく、私は自分を大人だと思い込むことにしていた。母と祖母を守らなければと、ただそれだけを思っていた。だから、何にも負けてはいけないと思い込んだのだろう。

母は祖母が眠りについた後半年鬱で寝込んだ。そして新興宗教にのめり込んだ。
私が思春期を迎える頃にはのめり込んだ熱がマックスになり、会話が成り立たなくなった。
その頃、このブログの記事に書いたいじめが始まり私は精神を病んだ。

さて、何故いきなりこんなことを書いたのかというと、「12歳までは無償の愛情を受ける時期」という一文をツイートで読んだからだ。
私は受け損ねた。私が無償の愛情を差し出し続けた。
役に立てば愛してもらえる、役に立てば認めてもらえる、役に立っている間はいじめなど嫌なことが忘れられる、そんな思考に育った。
今現在持病で体が思うように動かない私は見事に自己愛というものが欠如している。自尊心など無いに等しい。
役に立たずして、何を得られよう。日々、そう思っている。