生きがいを失うと人はどうなるか

人は先にある生きがいを失うとどうなるか?
この文面を目にして、あー、と笑った。
今なら書き残せる気がするので個人的な記録としてここを使う。

私はまず、異常に冷静になった。恐ろしいまでに冷静になった。
周囲への対処を一番気にしていたかもしれない。
そして何より何が起きているのかの把握に冷静に向き合った。ここで逃げたら終わる、何が終わるのかわからないけれどひたすらそう思っていた。
私には布一枚も身体に身につけずに、割れたガラスの散らばった床に横たわって何度も寝返りを打つような行為だった。
しかしその痛みすらもその時には気付かなかった。
そして不思議なことに私はとても笑っていた。誰の前でもその話を笑って平気に出来た。これは完全に防衛本能が働いていたから。
その為に一部の友人が離れていった。笑って話すことじゃないと怒っていた。ならばあの時私は泣けば良かったのか?泣いて何になる?
自分の力ではどうにもならないことが起きた時にどうすべきか、冷静に現状を把握すること。
これはイジメられ続けた経験が役立った。
笑い続けたのは、誰にも迷惑をかけたくなかったからだ。既に迷惑をかけざるをえない人達がいたから。これ以上延焼させたくなかった。
今頑張れば何かが変わるかもしれない、そんな期待もあったのだろう。

結果的に言うと、私は記憶を失った。そこから数ヶ月の記憶が殆どない。所々、点々と思い出せるくらいで、何をして生きていたのかよくわからない。
そして、食事をやめた。食べられないのと、食べる意味がわからないのと二種類あった。体重は笑えるくらいみるみる落ちた。
親に「もう殺してくれ」と懇願した。何度も何度も頭を下げて許してくれ、もう無理だと懇願した。
歩行が難しかったことを思い出す。バランスが取れないのだ。フラフラと気付くと斜めに歩いてしまう。
それでも周囲から変な気を使われることだけは嫌で約束は何一つ断らなかった気がする。その時はとにかくギアを3段階くらい上げて挑んだ。
そして何よりも大きいのは「期待」をやめた。
それは人に対するものもそうだし、未来へのものもそうだ。そもそも、期待をするからこうなる、と思った。本当は意味のない期待をしているほうが楽だ。けれどそれはもう私の中では恐怖以外の何物でもない。
「普通」というレールからその時に降りた。もう、いい。いつ終わってもいいな、今冷静にそう思う。自棄とかじゃなく、とても冷静に思う。私は私を上手く乗りこなせなかった。結果、私は私の不幸を招いた。それだけの事なのだ。だから不幸と言うのも馬鹿らしいのかもしれない。当然の結果に近い。

半年が経って私は当たり前のように笑う。
そして、当たり前のように食べる。体重は減った半分まで増やした。無理やり食べた時期もある。家族に入院の相談をされていることを知った時から必死になった。人に迷惑をかけたくない、それだけだった。もう沢山かけてしまったから。あと半分がなかなか戻らない。
当たり前のように友人と会う。
当たり前のように言葉を書き残す。
けれど、大きな何かを失った。確実に私の中の大きな何かが欠如した。それが何かはまだ言語化できない。けれど、本来あるべきものなのだと思う。
体の中にすごく大きな穴が空いている。とても強い風が吹いている。けれどそれを誰に見せることも出来ない。自業自得だから。
「身の丈に合わないとはこういうことなんだと知った」、とあの日の日記に書いてあった。
私は体重以外まだ何も取り戻せずにいる。