上質な容れ物を持て余している

幼少期、転んで足を擦り剥けば驚いて泣いた。
傷口を洗われて、消毒液を塗られることが痛くて大嫌いだった。
けれどたまに大怪我をして巻かれた包帯は何故だかドキドキしてほんの少し嬉しかった。
何故幼い子供というのは包帯だとか大袈裟なものが好きなのだろう。

メンタルを壊してから、怪我をしてもなんとも思わなくなった。
それは年齢もそれなりになったからというのもあるだろう。けれど、「あちゃー」とも思わなくなった。
ただ、器に傷がついたというような漠然とした感覚でしかなくなった。
「きちんとしないと痕が残るよ!」と言われても、痕が残るから何なのだろう?と思うようになった。
痕が残ると何なのですか。綺麗に治らないということなのでしょう。しかし、これは器なので残ろうがどうでも宜しいのです。

それから、脳と体が上手く直結していない。
脳が働いて体が動くという原理はわかる。そしてそうやって私は考えるまでもなくこの文字も打っている。
けれど、体はどこまでいっても器で、本体は頭部の脳でしかないと思う。
危機感というものに対してひどく鈍感になった気がする。
事故にあった時もそうだった。漠然としていて、人ごとで、人に迷惑をかけることはいけないことだから「すみません」と謝ることだけをしていた気がする。
「怪我はないか」と聞かれたけど、いえ、体はそこまで重要ではないのでと頭では思いながら口には出さなかった。
そんなのただの頭のおかしい奴じゃないかという自覚はあるから。

人の体は本来美しい。
人の体ほど美しい曲線美はこの世にないと思う。
そういった愛しさは知っている。
私は人間の体のラインがとても好きだし、人の体というのはなんて無駄がないのだろうと感心する。
けれど、自分の体に関しては容れ物のようにしか思えない。思念の容れ物。
傷が残ろうが、傷つけようが、取り敢えずこれは私の体というよりは私を梱包している容れ物だ。

この認知の歪みを私は治さなければならないのだなぁと思った昨日の病院帰りの話。