アウトプットという現実逃避

酷く落ち着かないので、文字に縋る。文字を並べ替えて文章にしている間だけは私は落ち着けるから。大丈夫。手の震えも頭の重みも手汗も何もかもを忘れられる。大丈夫。こんなことは普段のブログには書けないのでこちらに吐き散らす。

病名を告げられてから、一つ一つの自分の行動を観察するようになった。たったこれだけのことで、私はこんなにもエネルギーを使うんだ…とか。人が楽しんで笑っている世界がこんなにも遠く映画を見ている感覚でしかないんだな、とか。今までわかってはいたけど、やっぱり薬の効き目は感じづらいよな、だとか。人の話を聞いて受け止めるだけで精一杯で、視点が泳いでしまって落ち着きがなくなっているな、だとか。1日に2つの用件を入れると2つ目の用件の時にはボロボロになって体が震え出してしまうんだな、だとか。

なかなか酷いなと思う。一つ一つの自分の体の答えにショックを受けてしまう。わかってはいたし、今までもこうだったけれど、この一つ一つと私は生きていかなければならないんだね?とまた再確認してしまう。好きな話をして好きなことをしているはずなのに体が震えて、呼吸が浅くなって、視点が定まらなくなる。ぼんやりと頭が重くなってしまう。悔しくてたまらない。使い物にならないこの体が大嫌いだ。私はまだこの体をとても愛しいとは思えない。

 

大切な人が私に言った事がある。「死ぬ時に隣にいて欲しいんだよ」と。悲しいことに今の私と同じ夢なのだ。私の今の一番の夢物語は、安楽死が認められた世界で、老いてみすぼらしくなる前に大切な人と1日を丁寧に過ごして、有難うをきちんと伝えておきたい。そしてそのまま永遠に眠りたい。私が眠りにつく時に隣にいなくてもいいけれど、最後の1日を共に過ごしてくれないか、と思う。けれどこれは夢物語で日本で安楽死制度が導入される日なんて来るのだろうかって思うから、現実的に生きる道を模索するしかない。だから、眠っている時に見る夢のような意味の夢に近い。遠い遠い夢。けれど、本音では私はもう自分の体と付き合っていくことに心底疲れているから、こんな夢を見てしまう。自分自身に拍手を送れるくらいには頑張ったと言えるから。けれど万が一世界が変化して、私のような人間でも呼吸がしやすい社会が出来たなら、私は自分の安楽死よりも、大切な人の死を看取りたい。1人にされても大丈夫よって笑顔で看取れる自信ができるから。

 

ちょっと出かけただけなのに。ちょっと人とお茶をしただけなのに。この体はこんなにも頭痛が加速して、震え出し、呼吸も浅くなる。社会は待ってくれないのに、私の体はまだこんなにも動かない世界にいる。道が見えない。私が私を殺すばかりで、居場所が見えない。何処に歩んだらいいのか私は迷子だ。

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