君にもそんな夜があったらいいのに

寝る前の薬が変わってから、まあ見事に眠れない。
眠れないと言うと少し違う。夜まるで効かず、朝いきなり効くという変化球っぷり。
今日も22時にはちゃんと薬を飲んで寝たのに起きたのは0時半。嘘でしょ。嘘でしょ!?
ってなりました。

誕生日になかなかショックなことが起きてからどうにもこうにもどうしたらいいのかなぁとメンタルを潰されている。
数年ぶりの潰され方をしている。
それでも犬達は呑気にわちゃわちゃと遊ぶ。
だからペットシートを黙って代える。
日常。
日常の中に不穏が潜んでいる。
モヤモヤと黒いモヤのように部屋の中に散らばっている。

書きたい。
様々なことをもう書き出して楽になりたい。
けれど文字にならない。言語化に繋がらない。
ねえ君にも同じような夜があったらいいのに。

死ぬということ

20代後半になった時、やっと葬儀よりも結婚式に出た回数が上回った。
私の祖母は私が12歳の時に亡くなった。それを皮切りに数年に1度ずつ親族が亡くなって行った。
私の母の生家は、祖母と祖父が離婚をしたことによって私にとっては繋がりがないような気がして居心地が悪かった。
それを祖父の姉に話した時に、家系図を書いて、
「確かにあんたの言う通りに法律かなんかではあんたは繋がりがないかもしれないけどね、血の繋がりは馬鹿にしちゃいけないんだよ。2度とそんなことを言っちゃダメだ」
と私をしかり飛ばしてくれたおばさんは祖母が亡くなった翌年に亡くなった。

今でも忘れられないのは父方のおばさんで、父方の祖母の妹の葬儀だ。孤独死だった。
しかも夏の盛りに数日見つからなかったので、そこで初めて人が放つ腐臭を嗅いだ。
落ちない染みも初めて見た。
父方の親族が集まってああだこうだと色々と話し合いながら葬儀をした。
おばさんは深夜に具合が悪くなり119をしたはいいが、嘔吐と便を同時にしていて服が汚れていることが気になったのだろう。着替えようと階段を降りようとして落ち、頭を打ったまま亡くなったようだ。
葬儀をしている数日間のうち、一日だけおばさんの家に泊まった。おばさんのベッドで寝た。
父のいとこがおばさんの部屋で寝ている私を幽霊だと思って心臓が止まりそうになったと言われた時は笑ってしまった。
私は何故か、何も怖くなかった。床に染み付いたおばさんの体液も、凹んでしまった畳も。

親類ではないが、町内に私と会うといつも「頑張ろうね」と声をかけてくる精神疾患を持ったおばさんがいた。
いろんな人に際限なく話しかけるので町内の人からは疎まれていた。
事実私にも姑の話をひたすら繰り返し、あなただけが救いなのよと言われて若干怖かったので逃げたりしたこともあった。
それでも精力的に働く人で、病気ではあることは確かなのだが生の力に溢れていた。
そんな人が冬の早朝に溺死を選んで自死した。
突然のことだった。
とても浅い川なのだが、自死出来てしまった。
その時私は何故か(やっと楽になったのだな)(頑張ろうねと言いながら1人だけ楽になりやがって)と2つの感想を持った。

私にはもうどちらの祖父母もいない。
皆、病の末に闘い切って息を引き取った。
介護と看病をしてきた私は胃瘻になるくらいなら死を選びたい。勿論年齢にもよる。
それなりに生きて、食事が経口摂取出来なくなるくらいなら、点滴を打って弱って最後はゆっくり死にたい。
そういった死の選択を考えるきっかけになった人達が沢山いる。

何故今夜はこんな事を書いているのか自分でもよくわからない。
ただ、今夜は死の匂いが少し強いようだ。
両親はもうきちんと遺言状を書いてくれている。有難いことだ。
私も書かねばならない。
もしも私が死んだなら、普通の花で飾って欲しい。その中に葬儀でよくある極楽鳥花だけは入れて欲しい。
そして目一杯食べ、目一杯飲み、「あいつはここが馬鹿だったよね」と笑って欲しい。
それか、もう何もせずにただ燃やして遺灰は実家の土にでも混ぜて欲しい。
こんな願いを書いたが、私はどこに行っても年下で末っ子なので願いを聞いてくれる人がいるかが問題だ。

何れにせよいつか死ぬ。それは紛れもない事実だ。それまでにどれだけ戦い抜けるか。
死の間際、微笑めたらはなまるだ。

1年が経った

今でも忘れない。
ふとTwitterを開いたら、貴女が「死にたい」と呟いていて、それはいつもの事だからああ今日も調子が悪いんだなって眺めて終えたんだ。
そしたら次のツイートに「亡くなりました」とあって、私には何が何だかわからなかったんだよ。

私の周りにはメンタルが弱い人が多くいるけど、幸い一人も死ぬ事なく今までやってこれていた。
貴女が自死出来てしまった頃、私は結婚する日が近づいていて、病気をしながらも結婚生活をしている貴女に相談しようと思っていたことが山ほどあったんだ。

家事はどれくらいの頻度で出来てる?
具合が悪い時って夫婦でどんな決め事してる?
私も貴女と同じ病気に切り替わったかもしれないんだけど大丈夫かな?

何にも聞けなくなっちゃった。
貴女とは音楽が好きという共通点もあって、
共通の知り合いもいてお互いびっくりしたね。
そのうち何処かで何かのライブで会えるかもなんて思ってたんだよ。
ねえ、エルレが10年ぶりに復活したんだよ。
私、ちゃんと目に焼き付けてきたよ。

確かなことは今でもちょくちょく貴女を思い出していて、今貴女が生きていたら聞きたいことがやっぱり沢山あるということ。
そして、もっともっと話しておけばよかったということ。
共通のフォロワーから元気そう?なんて聞いてないで自分から連絡すればよかったということ。

貴女のことを考えると今でも私は涙腺が緩むからここまでにしておくね。
私は今日も生きたよ。

家庭のお話

両親共働き、祖母在宅の家庭で育った。
私達3人兄妹の躾親は祖母だった。
両親は共に家庭より仕事にウェイトを置いており、週末には飲み会に出かけた。

私の記憶にある頃には当たり前のように母は新興宗教の勉強をしていた。それ以外では仕事熱心な人で職場の人とよく飲んでいた。帰ってきては会社の上司の愚痴をこぼしていた。新興宗教の勉強を一緒にすると褒めてもらえたので褒めてもらいたくて一緒に勉強をした。
父の記憶は正直あまりない。家でビールを飲んでいる姿はわかるのだが、何を話していたかわからない。そもそも、父は家庭であまり話す人ではなかったのかもしれない。
祖母は無口な人だった。そして、愛想のない人だった。叱る時は叩くし、逃げれば追いかけ回される。ちょっと口答えをするだけで叱られた。けれど、理不尽に怒られたことはなかった。私達3人兄妹は年がそれぞれ離れているが、毎日祖母から与えられるお菓子は皆同じ量で同じものだった。年上だからたくさん、という意識がなく、皆平等の人だった。
我が家を出入りする新興宗教の人にも黙って自分の作った煮物を差し出してもてなした。
毎朝野菜を売りにくるおばあちゃんはお茶飲み仲間で朝から昼までお茶を飲んで笑っていた。

そんな祖母がくも膜下出血で倒れた日、我が家は色んなものが崩れた。私が9歳の時だった。
母は救急車が出ようというときに会社からタクシーで間に合い救急車に飛び乗ったまま80日間家に帰ってこなかった。
その日から家事は父が全てを賄った。
長兄はバイトに逃げた。次兄は中学に行かないことを決めた不登校だったのでゲームに逃げた。
学校から家に帰宅したときに家の変化というものを嫌でも痛感した。電気がついていない。おかえりという声がない。いつも黙って座って相撲を見ている大好きな祖母がいない。母は帰ってこない。長兄もバイトで遅い。次兄は部屋に籠っている。父は帰ってきてから慌ただしい。

生活に変化があった直後から自律神経が狂い、吐き気が止まらなくなった。
学校を休みたいと父に願い出たが叶わず、自分で電話をして頬を叩かれたこともあった。
家に置いておくのは不安だからといとこの家に数日預けられたりもした。地獄だった。私は自宅でせめて次兄の隣に居たかった。
知らないうちにいとこと同じ学校に転校する話まで出て居た。それはなんとか免れた。
結局私の不登校は、担任が家に迎えにきたことによって終わった。子供心にそこまでされたらどうしようもないと思ったからだった。

祖母は死の淵を何度もさまよって、何度も手術を繰り返して、病と闘った。
入院した翌年の春、奇跡的に退院した。しかし寝たきり、痰の吸引が必須、体位交換必須、という24時間介護の始まりだった。
母は仕事を辞めた。
その頃から私は学校でいじめを受け始めた。嫌な時期と重なったものだ。
家に帰れば母がいる。しかし24時間痰の吸引と2時間置きの体位交換に満足に寝かせてもらえて居ない母だ。いじめのことは言えなかった。
父も休みになれば積極的に介護をして居た。
まだ介護認定が始まったばかりの頃で、ここまで重度の寝たきりをデイサービスがなかなか受け入れてくれなかった。
母の愚痴は学校から帰った私が聞いた。どんどん無くなっていくお金の話。病院で祖母がどんなに苦しんで居たかという話。頼れるのは貴女だけという話。
私が頑張って母を支えなければ母が壊れてしまうと思った。だから痰の吸引から体位交換からオムツ替えまで何でも手伝った。私も寝床を祖母と共にした。

学校でのいじめは変わらなかった。けれど、私には母と祖母を救わなければいけない使命があるという強い気持ちだけで生きていた気がする。

介護は私が12歳になるまで続き、12歳の冬に祖母は眠りについた。
いじめは激化していた。今でも不思議に思う。なぜ1日も休まず学校に行ったのか。
恐らく、私は自分を大人だと思い込むことにしていた。母と祖母を守らなければと、ただそれだけを思っていた。だから、何にも負けてはいけないと思い込んだのだろう。

母は祖母が眠りについた後半年鬱で寝込んだ。そして新興宗教にのめり込んだ。
私が思春期を迎える頃にはのめり込んだ熱がマックスになり、会話が成り立たなくなった。
その頃、このブログの記事に書いたいじめが始まり私は精神を病んだ。

さて、何故いきなりこんなことを書いたのかというと、「12歳までは無償の愛情を受ける時期」という一文をツイートで読んだからだ。
私は受け損ねた。私が無償の愛情を差し出し続けた。
役に立てば愛してもらえる、役に立てば認めてもらえる、役に立っている間はいじめなど嫌なことが忘れられる、そんな思考に育った。
今現在持病で体が思うように動かない私は見事に自己愛というものが欠如している。自尊心など無いに等しい。
役に立たずして、何を得られよう。日々、そう思っている。

人格形成のお話

今日、主治医に「君はアイデンティティが常にぶれている。だから他人からの言葉に動揺しやすい。どこから治療の手を付けていいのかわからない部分がある。他人から死ねと言われて死ぬ人がいますか?そういうことですよ。他人の言葉にそこまで動揺する必要はない」
と言われました。
私は咄嗟に「死ねと言われて死ぬ人もいますよ」と思いましたが黙りました。

アイデンティティは何歳から何歳で確立するものなのでしょうね。
私は物心ついた頃には虐められ、虐めが続き、気付いたら「生き残る」を目的にただ生きてきた人間なので正直健常の人間がどうやってアイデンティティを確立したのかわかりません。
私の人生の目的は9割「生き残る」でした。
その環境で生き残る、社会的に生き残る、生に執着する意味での生き残る。
私にとって生き残ることが全てでした。
その為ならどんな自分も作り上げたし、自分の感情も抑圧したし、自分を徹底的に殺しました。

私は病気があってのこの性格になったのだろうかと思ったのですが、今日医師に言われた言葉で全て壊れてしまいました。
「薬物投与でどうにかなるというよりも、アイデンティティの確立の問題だから薬物治療のアプローチも難しい」。
私の主治医は本当にはっきり言ってくれます。
だからこそ好きなのですが、えぐる時はとことんえぐってきます。
ならば私の11年間はなんだったんだろうとふと帰りの車の中で考えてしまいました。

私は誰の言葉でも動揺するわけではありません。正直自分の中でどうでもいい人間からの言葉は耳を通り抜けます。
もしもこれがアイデンティティの問題なのだとしたら、日常生活に支障をきたしている数々の問題は何なのでしょうか。
ただのだらしないぐーたらした腐った人間ということでしょうか。
アイデンティティとはなんですか。調べても調べても答えに行き着けません。
生き残ることに必死な人間が、「これをやりたい!」と積極的に思えるならば医師はいらないと思うのです。
ここまで弱り切ったのもアイデンティティがぶれているからですか?
私は何と戦えば良かったのでしょう。どこまで強くなれば良かったのでしょう。
さっぱり、わからなくなってしまいました。

「あなたはいつも一寸先は闇のところにいる」と言われた時だけ笑いました。
あなたは変わる努力をしていない、治そうという気持ちが感じられない、何がしたいのかわからないという友人は勘が鋭かったのかもしれませんね。
私は今もうどうしたらいいかわかりません。

春だからね、とみんな言い聞かせるけどどこか違うな

昨日辺りから何かがおかしいと薄々感じてはいたのだけれど、今日窓の外をぼんやりと見つめていてハッと気付いた。
完全な無力感と、絶望感と、焦燥感と、希死念慮
今日、波のように一気に私を飲み込んでいる。
外はとても穏やかな晴れだ。とても暖かい。
「春だね、嬉しいね」なんて言えそうなくらい平和な世界が広がっているのに、私はこの景色を見ると涙が溢れそうになる。

ふと、なんでこの歳まで生き延びてしまったかな?と考えていた。
年々、私をこの世界に繋ぎとめておく鎖が減っていることには気付いてはいたのだけれど、いよいよわからなくなってしまった。
今までは何だかんだと周りの人間のことを考えられていたのだけれど、その余力が尽きかけている。
取り敢えず生きていればいいよなんて年齢でもなくなっているし。個人的に年齢の問題はとても大きい。
発達障害の35歳限界説というのが私には他人事に思えない。
私は定型発達だと今の所言われているけれど、慢性疾患で非常に生きづらいという点は類似している。
努力を繰り返してもどんどんと虚しくなってきてしまった。病との付き合いが長くなればなるほどもう十分なんだよって気持ちが大きくなる。
現実は恐ろしいほどに冷静だから、容赦なく社会的な私の立場を突きつけてくる。
他者のサポートがあってようやく立てているような人間にはこの先の必要性がわからない。
生きているだけでいいんだよなんてそんな簡単なことじゃない。詭弁だ。
生きるためにかかるコストを私は今自分の力で何も出来ない。社会は生きるためお金がかかる。そのお金すらも生み出せない。
年齢は年々増えていく。社会的にどんどんと隅に追いやられる。

この病と一生を添い遂げる自信がない。そもそも病が私を積極的に殺しにかかってくる。
年々パワーの回復方法がわからなくなっていく。前はもっと単純にもう少し、もう少しと思えたはずなんだけどな。
せめて綺麗な原型のうちに終わりたいと願うのは我儘だろうか。
もう自傷も大量服薬も疲れた。やる気にもなれない。
もう少しの先に何がある?それが何をもたらす?
もう疲れちゃったよ。それだけ。

あなたが無駄だと言っても私はこれを誇りに思う

私は今働いていない。働けるだけのエネルギーがまだ体に戻っていない。
そしてPTSDの関係で過覚醒やら過敏やらで睡眠障害が酷いので日常生活も安定していない。
精神状態も不安定で薬が効きづらい疾患なので、どうにもこうにもというのが現状である。
しかしそうしていては社会との繋がりは簡単に絶たれてしまうので私がこれだけはとやっていることが、地域のイベントスタッフと震災関連のイベントスタッフだ。
この二つをなぜ始めたかと言えば学生時代の講師が関わっていて、友人のように親しくしていたらいつの間にか手伝いに来いという展開になって気づいたら毎年協力するようになったというとても変なきっかけなのだけれど。

私にとってこの二つはリハビリだ。
私にはエネルギーが無い。そして認知の歪みが大いにある。そして人間不信は医者のお墨付き、何ならテストでばっちり1番指摘された部分でもある。
イベントスタッフというのは一つの目的をある程度多くの人数と共有して話し合って作り上げていく行為なのでとても刺激になる。
エネルギーは毎回イベント終了後に緊張状態が一気にとけて(過剰な覚醒もしているのだと思うけど)何かしら体に不調をきたす。これはもう致し方ない。
認知の歪みに関しては色んな価値観を持つ人と関わるようになって随分矯正してもらった節があるし、自分よりヤバイなという人にも出会ったりした。
人間不信に関してはまだまだリハビリの序の口でしかないと言った具合なのだけれど、それなりに信頼関係を生んでいないとイベントの骨組みなぞ立てられないのでそこそこは効いているのだと思う。
そして何よりイベントから人脈は広がるし、色んな人に出会えるし、人との繋がりが断たれることはない。
なので、ある程度しんどくてもリハビリとしてこれだけはやっている。やると決めている。

このリハビリは年に二回で、地域のイベントスタッフは1月頃から打ち合わせが始まり、4月開催まで話を詰めて下準備をする。
助成金申請の書類をどう纏めるかなども話し合ったりする。
冬は最も不調なので戦いでもある。それでも社会との繋がりを絶ったら終わりなのでしがみつく。有難いことに私の疾患に理解のあるメンバーなので無理はしないでねと言ってくれるが、私自身が手を抜きたくない性分なので仕方ない。
貴女は仕事をしていたら確実にワーカーホリックになるタイプだと言われたりしたこともある。否定できないのが怖い。
震災のイベントスタッフは9月に打ち合わせが入り、10月に本格的に動く。イベント当日一週間前辺りは毎日のように会場にこもる。
前々日あたりから23時を過ぎる打ち合わせを繰り返す。
全国各地から集まってくれる照明のプロや音響のプロの話を聞くのはとても楽しいし有難いことだと思う。

何故いきなりこんなことを書いたのかと言えば、「貴女は治す努力を一切していない。逃げ癖がついているだけ。変わる努力もしてない。変化があるまで会わなくていい」と言ってくれた友人の言葉を思い出したからだ。
私は変わりたくて、治したくて、社会に戻りたくて、今出来る精一杯のこの二つにしがみついている。
友人の言葉では、お金を稼げなければ意味がないらしい。「1円でも稼ぐ努力をしろ」と実際に言われた。そういう考えかたがあるのも事実だ。他の現実の健常者から見たら私はただの甘えた腐った人間でしかないのかもしれない。
私が日々戦っている希死念慮と絶望感と慢性的な疲労感と異常な過敏性と過覚醒は目には見えない。
私が夜にどんな過ごし方をしているかなんて伝わらない。過敏性によるストレスで年間の中でも記憶が飛んでる時期が未だにあることすら、伝わらない。
わかって欲しいなんて言わないよ。それは価値観の相違ってものもあるからね。
けどね、私の努力はこれだよって提示したものを否定はしないで欲しかったよっていう私の気持ちの弔い。
あの日言えなかった私の気持ちがやっと纏められそうなので纏めてみた。素直に言えば怒りだってある。相当強い怒りと苦しみと悲しみがある。けれど、伝えたところでもうそれはただの喧嘩でしかない。

最近は周りでも妊娠した友人が増えてきて、結婚したら妊娠だねって当たり前のように話が進んでしまう。
それを伝えてきた友人も友人がちょうど臨月の頃だった。
けれど私は自分が生きることに必死だ。自分を大切にすることすらまだ学びとれていない人間に何が出来よう、と思う。
そして、そんなにも私に「普通」を求められても、もう頑張れない。正直、もう十分頑張ったのでそろそろ身の丈にあった生活を許して欲しい。
出来る範囲ならば頑張れるから、出来る範囲はなるべく広げていくから、今は許して、としか言えない。
私は求められてきたものを十分やりました。十分過ぎるくらい応えてきたら壊れたので、私を大切にさせてください。
私に、自分の可愛がり方を学ぶ時間をください。自分の喜びがなんであるかを知る時間をください。自分の好きなものがなんであるか思い出す時間をください。自分が安らげる場所がなんであるか気付く時間をください。
私をこれ以上殺さないでください。
私をもう、私の手で殺そうとさせないでください。