物事には誰しも限度がある。

アカウントを引っ越した。
色んな人にお手数をおかけして申し訳ないのだが、もうあのアカウントを使うことすら嫌になってしまった。
お願いだから放っておいてほしいと言っても伝わらない人種に対してできることは自衛しかない。

私は急激に距離を詰められることが苦手だ。
だから何度も何度も説明をした。
会話でも伝えたはずだ。
何のために朝まで話したのだろう。
それでも対応が何一つ変わらずに、自分の中にある正義をひたすら盲信して押し付けられた。
違うと言われてしまうかも知れないけれど、私にはそうとしか感じられなかった。

たくさんの努力を重ねて今を掴み取ったのだろう。それを理解はできなくても想像することはできる。
とても凄いことだと思う。素直に尊敬もする。
そのやり方で今までやってきたのだろう。
けれど、そのやり方を暴力としか思えない人間がいることを理解しろとは言わないから受け止めてほしい。
誰しもが手を伸ばされたら掴めると思っているのだとしたら、残念だけれど住む世界が違う。
それに掴む手を選ぶ権利だってある。

私との対話を求めていることはわかっていた。
私もそれを拒否しなかった。けれど最初にお願いをしたはずだ。見守ってくれと。
私が何を一番許していないかといえば、話したいことがあるならば第三者を巻き込んでライングループを作らないで欲しかったという点だ。
私は逃げも隠れもしない。一対一できちんと言葉を投げかけてくれればその時出来る限りの対応をした。
私は第三者に介入されることがとても苦手だ。
それで散々な目にあってきたし、第三者が介入することでその人の主観が入り意図が変化してしまうことを散々学んできたからだ。
私がどんなに声をかけても逃げ続けていたならまだわかる。しかし今まで私は一度も逃げなかったはずだ。
他者を巻き込んでまでコミュニケーションを図ろうとするのはマナー違反だ。
私達は子供じゃない。それこそあなたが何度も繰り返してきた言葉で言う大人だ。

一度発した言葉は二度と消せないということを知っていてほしい。
そして発言は必ず意図せずとも人から人を介して広まる。
インターネットの世界は発言が残る。何を発していたか調べることも可能だ。
「人の好意を受け取る努力をしないことが甘え」なのだとしたら、「人の好意を上手く受け取れない人間の心理を想像する努力をしないことも甘え」だと返そう。

私は極度の人間不信で人間嫌いを拗らせた人間だが、対話を拒否しているわけではない。
話していて楽しいことも山ほどある。
そうじゃなければウェブの世界にいない。
私に出来ないことをしている人を尊敬するし、温かい言葉を貰えば嬉しい。
くだらないやりとりだって楽しい。
大切にしたいと思う関係性だってある。
私はそれを大切にしながら、楽しい時間を過ごしていたいだけだ。

読めるかどうかは知らないが書き残すことにしたのは私が提示できる最後の誠意だ。
巻き込んでしまった人に対する事情説明の意味も込めている。
巻き込んでしまった方々とお手数をかけてしまうことになった方々への謝罪を込めて。

人の口に戸は立てられない

外面だけはいい生き方をしてきた。
その外面は弾かれて弾かれて弾かれて覚えた。
その代わり常にそこに壁が一枚ある。
笑っているけれど、笑っていない。
好きはある。それなりにある。人に対してもそれはまだちゃんとある。一応。
これだけ弾かれて弾かれて弾かれてボロクソになっても、まだ好きは残っている。
それはとても小さなサークルでしかないかもしれないけれど。
サークルでもない最早ポツポツとした局地的なものかもしれない。
しかし、その好きが何を意味しているかあまりわかっていない。何が好きなんだろう?
でも、確かな好きはある。本能的な部分がまだ残っているのだと思う。

周りがとても眩しい。
直視しようにも眩しすぎてできない。
それをその人たちは暗いという。
それが暗いのだとしたら、私の立っている場所はどうなってしまうのだろう。
ここは湿度が高く、前後左右何も見えない。
音も聞こえてこない。
もしかしたら自分で目隠しを付けたのかもしれない。
耳栓もつけたのかもしれない。
もう見たくも聞きたくもないと。
とにかく眩しい。
だから、一歩、また一歩と下がる。
私の目ではその光は捉えられない。
まだ、この目は耐えられるほど力を持っていない。
でもきっとみんな自分の立ち位置をそう思っているんだろう。
だから、暗い自慢になりそうな話は片っ端から避けていきたい。
それすらももう疲れた。

ねぇそれって例えばどれくらい痛いのって歌ったのはノベンバ。
痛さで言えばもうよくわからない。
痛覚を自覚するエネルギーを失った。枯渇している。
ただ、ぼんやりと思う。ここはどこだろう。
ここで何をしているんだろう。
ここまできて、何があったというのだろう。

昨日開いた扉が良かったかどうかはまだわかりかねている。
それでも開いてしまったものは開いてしまったのだから仕方ない。どうしようもない。
ただ、1人だったら耐えられなかっただろう。
隣にいた彼女にありがとう。

あの日夢見た景色はとても美しかったよ

私の生殖機能は人よりも乏しい。
十代の時に月のものがおかしくなって婦人科を尋ねたら呆気なくそれは宣告された。
「君は子供が欲しかったら治療が必要だね」
十代なりにその言葉の重みは理解できた。
その時に永遠を誓い合う結婚というものに対する希望を半分失った。


「治療をすればできるんでしょう?」
「どうしてちゃんと婦人科に通わないの?」
「子供は可愛いよ、諦めないで」
どれもこれも言われた。大抵お腹が膨らんできた妊婦の友人で、何一つそこに悪気はない。
わかっているから何も言えなかった。
子供は可愛い、それはとても素晴らしいことであんなにも無垢で価値観の形成も他者から吸収することで覚えていく生き物はある意味怖くて、けれど生命というものはとても神秘的で。
考えたことがないわけじゃない。
寧ろ、セックスをして当たり前に出来る体よりも考えたと思う。
考えに考えた末に残ったものは両親への罪悪感と、女性としての未熟さの情けなさだった。
そこにプラスして私にあるのは精神的な病で、どうにもこうにもそれは揺るがなくて。
精神科を尋ねた最初に言われた言葉に対する自分の気持ちをまだ覚えている。

「安心して。子供は産めるよ」
(先生、私の体は治療をしないと子供ができないので大丈夫なんです)

周りは当たり前に治療を提示する。
そういった人達は誰もその意味を深く考えていないのだろう。
「治療」という本来必要のない筈の段階を踏まないと子を授かれないという意味を。
それがどれだけ女性として生まれたことの意味をことごとく削り取っていくのかを。
別に女性として生まれたからには子を授かれとは思っていない。それは個々の自由だ。
けれど、それが当たり前に出来る体ではないのだと言われることはやはり後ろめたい。
月のものは当たり前のようにくるけれど、そこに排卵という機能が伴っていない出血を繰り返す虚しさは伝わるものではないのだ。
毎月すり減る。心の何処かが着実に削れていく。


今でこそあえて子無しを選択する夫婦も増えてきたし、不妊治療も珍しくなくなった。
それでもやはり、どうしても、圧倒的に当たり前に授かれる人間に対しての壁は大きい。
そして、「子供なんていなくても大丈夫」という言葉を簡単に口にする男性を信用できない。
何故なら男性は本能的に種を残していこうとする生き物だから。
何より、「子供が欲しい」と一度は言われて別れを経験しているから。
そりゃあ、そうだよね、と頷くことしかできない。
そして不妊治療はお金がかかる。お金が無ければ何も始まらない。
私の体の未熟さで本来かからない筈のお金を掛けさせる申し訳なさも大きい。
健康な体というのは、尊いのだ。とても。とても。


まだ自分の体の未熟さを知らなかった頃に夢を見ていた。
好きな人との間に出来る子供はとても愛しくてそれはなんて尊いことなのだろうと。
あの日夢見た景色はとても美しかったよ。

上質な容れ物を持て余している

幼少期、転んで足を擦り剥けば驚いて泣いた。
傷口を洗われて、消毒液を塗られることが痛くて大嫌いだった。
けれどたまに大怪我をして巻かれた包帯は何故だかドキドキしてほんの少し嬉しかった。
何故幼い子供というのは包帯だとか大袈裟なものが好きなのだろう。

メンタルを壊してから、怪我をしてもなんとも思わなくなった。
それは年齢もそれなりになったからというのもあるだろう。けれど、「あちゃー」とも思わなくなった。
ただ、器に傷がついたというような漠然とした感覚でしかなくなった。
「きちんとしないと痕が残るよ!」と言われても、痕が残るから何なのだろう?と思うようになった。
痕が残ると何なのですか。綺麗に治らないということなのでしょう。しかし、これは器なので残ろうがどうでも宜しいのです。

それから、脳と体が上手く直結していない。
脳が働いて体が動くという原理はわかる。そしてそうやって私は考えるまでもなくこの文字も打っている。
けれど、体はどこまでいっても器で、本体は頭部の脳でしかないと思う。
危機感というものに対してひどく鈍感になった気がする。
事故にあった時もそうだった。漠然としていて、人ごとで、人に迷惑をかけることはいけないことだから「すみません」と謝ることだけをしていた気がする。
「怪我はないか」と聞かれたけど、いえ、体はそこまで重要ではないのでと頭では思いながら口には出さなかった。
そんなのただの頭のおかしい奴じゃないかという自覚はあるから。

人の体は本来美しい。
人の体ほど美しい曲線美はこの世にないと思う。
そういった愛しさは知っている。
私は人間の体のラインがとても好きだし、人の体というのはなんて無駄がないのだろうと感心する。
けれど、自分の体に関しては容れ物のようにしか思えない。思念の容れ物。
傷が残ろうが、傷つけようが、取り敢えずこれは私の体というよりは私を梱包している容れ物だ。

この認知の歪みを私は治さなければならないのだなぁと思った昨日の病院帰りの話。

帰属すること

生きていると何かしら、どこかしらに「帰属」することが求められるというか無言の圧力というか見えない抵抗というかがあって。
いい歳まで生きている割にそれに上手く順応できずにいる。

性格上、どこに行っても何となくその場に馴染めてしまう。それが例え所謂リア充タイプだろうとオタクタイプだろうと。何となくその場にいることは出来る。
そして、それをその場の人たちは誰も怪しまないし、問い詰めない。
「君にはこういう属性もあるんだね」という風に受け取られてきたように思う。
しかし実際にそうかと言えば常に何と無く透明な壁が一枚あって、「ここは会話に困らないしここは楽しいけれど、何かしら浮ついている気がして」しまって、個人的には集中できていない。
それは幾つになってもどこにいってもそうで、この歳になっても「ここだ」という居場所が掴めずにいる。

居場所は自ら作るもので、自らを提示していかなければそれらしい密着性は得られないのだなぁとつくづく思う。
私がどこに行っても上手く馴染めた気がせずに何処か世界を遠くに見てしまうのは残念ながら長年に渡って虐めを経験してしまったが故なのだろうな、と思う。
馴染んでしまってから弾かれるのは痛いから、苦しいから。だから壁一枚隔てて世界を見る癖をいつのまにかつけてしまったのだろう。
ここを一つの居場所としよう、とするのは勇気のいることだ。
それは例えありふれた友人関係でも言えることだと思う。
居場所は維持し続けようとする真摯さと勇気が必要だ。一人では押し付けになってしまう。
そして私は居場所なんてそんなに必要ないよと言えるほど孤独に強くないし、心底寂しがりやであることがどうしようもないまでに事実だ。

そもそも、生きることは嫌いではないのだと思う。変な前向きさを持っているから。
人に対して変な希望や期待や喜びを抱いてしまっているから、生きること自体は本来嫌いではないのだと思う。
勿論、過去に意識を奪われたり持病故の焦燥感や希死念慮に囚われているときは殺してくれと願ってしまうけれど。
では何が嫌なのかと言えば、「帰属」しようとする自分が嫌で、そうでありながら「帰属できない」自分が嫌なのだ。
私の口から発せられる言葉のなんて薄っぺらいことだろうと自分に失望するし、他人の言葉の力強さに驚かされてもその言葉をきちんと受け取れずにいる臆病さが心底嫌いだ。
クラスタとか、界隈とか、そういった言葉に何となく敏感になってしまうのはいつだってそこに自分がいる気がしないからだ。

新年を迎えて、新たな界隈に足を踏み入れた私はそんなことを最近ひたすらぐるぐると考え続けている。
人は思っているよりも素直で受け入れてくれて温かい。そういうことに触れてしまったから、ほんの少しだけ戸惑っている。
こればかりは信じたいと願いながら、何処でもない何処かへとたった一人でいる方が楽なんだよなんて泣きっ面に近い顔で笑ってばかりいる。

供養

あるエッセイを読み終えて、ふと思ったことがあったので書き留めておく。
私は根本的に性行為が嫌いなのかと言われたら、ノーだ。それが、好きな人との特別な行為だからという可愛らしい理由では無いにしろ、「楽しさ」は知っている。だから、ノーだ。
ただ時折無性に嫌いになることはある。性的な匂いが受け入れられなくなって、女であることが煩わしくなって、自分が抱かれる側であることが嫌になる事はある。けれど、それが慢性的なのかといえば違う。

相手がふといつもと違う表情を見せたり、人肌の温もりがこんなにも優しいんだと感じたり、ただ触れ合うことがこんなにも純粋に楽しいことなのだという事を私は確かに知っている。
だから、決してマイナスな印象を持っているだけでは無い。

こうしてネット上という一生漂い続ける媒体に書き散らした今思うことがある。
ここに書き散らしたという事は、相手がこれを読んでももういいという覚悟を持ったという事なのだし。
だから私は今だから言える事を残そうと思う。

あの日貴方はあまりにも自然に私に手を伸ばしたけれど、貴方がもしも性的な欲求があったにせよ、私に好意を抱いていたにせよ、必要だったのは何かしらの一言だったのです。
ストレートに「抱きたい」でもいいし、「特別な感情がある」でもいいし、ただ一言私に伝えて、私のリアクションを待つ事を貴方が怠った事が全てなのです。
私は貴方に敬意を持っていたし、実兄の親友であるという事実を知っているし、私は貴方にとても可愛がってもらっていた過去もきちんとあるのだから、貴方のどんな言葉にも私は向き合ったのにと思うのです。
貴方にそういった欲求が湧き起こった事実を、私はきちんと受け止めることだけは出来たしそれによって私が貴方を嫌う事はなかったのに、どうしてたった一言を逃したのでしょう。
私が示したであろう答えはどちらにせよ「よくないものだよ」という一言でしかないのだけれど、あんな風に積み重ねてきた過去までも壊してしまうような結果にはしなかったはず。
一瞬の選択だったにせよ、貴方は私に意思を示すことが必要だったのです。
私は人間の三大欲求を知らないわけではないし、どんな意思が働いていたにせよ貴方に対しては真摯でありたいという気持ちがあの時までは確かにあったのだから。
貴方の目から見て私が「少女」から「女性」に成長しているという事実だけでも提示してくれたら、貴方は自分の奥さんと子供に不義理を働くことも無かったのに。
私はそれを一番悲しく思います。ランドセルを放り投げて兄の部屋に遊びに行くと笑っておかえりと笑ってくれた貴方が、一番守るべき家族に不義理を働いた結果になった事を、何より悲しく思います。
貴方は私を傷つけたけれど、同時に自分も傷つけ、更に貴方を純粋に信じて嫁いだ奥様と生まれてきた子供達をも傷つけたのです。
誰1人幸せにならない結果を迎えてしまった。
もしも貴方があの時たった一言私に示してくれていたならば、起こらなかった事なのです。

私は貴方の前ではいつだってランドセルを放り投げて遊んでもらおうとする子供のようでもありましたから、年齢に見合わず確かに隙だらけだったでしょう。
自分がもう幼少とは違う1人の女である事を自覚していたら何か違ったかもしれません。
けれど、いずれにせよ一方的に手を出した貴方に責任は生じてしまうし、その責任を回避させられるとしたら、止めるべき存在の私しかいなかったのです。

私が貴方を許すとかそういったレベルの話ができるようになるのは明日かもしれないし10年後かもしれないし明確に断言できないことです。
例え私が貴方を許せる日が来たとしても、貴方が沢山の貴方を愛する人たちを傷つけたことは変わらないことが何より悲しいことだと思いませんか。
私がたった一言、こういったことがあったんだよと実兄に漏らせば、貴方は親友までも失います。貴方の選択は何一つ正しく無かった。
私は貴方にいつまでも安心のできる優しい人であって欲しかったのです。
友人の年の離れた妹とすら対等に笑い合ってくれる優しいお兄ちゃんだったのだから。

純粋に湧き起こってしまう性欲を悪とは思いません。
それは何一つ悪くない当たり前の原理であると知っているから。それは生物に与えらている本能であると知っているから。
ただ、知性を与えられた生き物であるのならば、意思の疎通は必要不可欠だったのです。

感情に蓋をしたら幼い私が泣いていました。

この所色々あったので書き留めておく。
整体を受けたら体がストレスで痛覚を失っていると指摘されたり、体の力の抜き方をわかってないと言われたり、人に心が開けていないと言われたり、交感神経と副交感神経のツボを押されて涙が止まらなくなったりした。
右後頭部に至ってはテニスボールのようなしこりが出来ていて、「どんな生活してたらこんなに凝るの!?くも膜下になりたいの!?」とお叱りを受けた。ほぐされた後に眼精疲労の痛みが復活してしまい、体を目覚めさせてしまったことを後悔した。「指で視神経を支えてあげているうちは痛くないと思うけどマッサージをやめて手を離すと痛くなると思う」と言われのだがまさしくそれで、マッサージ中は眼精疲労の痛みが消え、手が部位から離れた瞬間から鈍痛に襲われた。痛覚を目覚めさせるって恐ろしい。
そういえばいつからかどんなに目を酷使しても眼精疲労特有の痛みに襲われなくなっていた。なのですっかり治ったくらいのつもりでいたら真逆。麻痺しててわかってなかったと。でも、久々に体感した眼の痛みはあまりにも強烈で眠れなかったし、痛覚って無い方が便利なんじゃ無いかなと思ったりもした。
近いうちにきちんとマッサージを受け始めようと思う。

15年前に蓋をして放置していた感情と向き合わなければならない時が来た。
「人間嫌い、極度の人間不信、怒り」と。
鮮度が落ちないうちに大声で怒鳴ったり泣きわめいたり暴れたりしてでも発散させておけばよかったものの、私は蓋をした。
結果、15年間私は自分を騙すことに全力になっただけだった。
私は人が好きです、私は人の優しさが嬉しいです、人に期待することをやめたく無いです、なんて言葉を口にして自分はもう人間が好きで信じられて大丈夫って騙しこんだ。
騙しこんだところで自分の内側には当時叫べずに感情に蓋をすることを選んだ私が睨んでいるのだからもうどうしようもない。
わかりました、私の負けです。私は15年経って人嫌いや人間不信や人への嫌悪を拗らせました。15年前の私が酷く冷たい目で私を見て睨んでいる。私はまず、15年前の自分と仲直りして、極度の人間不信をゆっくりと紐とかないといけない。先が果てしなく長い。

そんなこんなが連日あって少々疲れているところにメンタルの不安定が重なって涙は出るし、素直な気持ちを口にできないし、冷たい物言いになるしで何もかも最悪でした。
相手も相手なりの環境下で必死に生きていると言うのに感情をぶつけ過ぎたなと大きく反省。
しかし私もいよいよ限界だったしタイミングとしては今日しかなかったのだけれどもっと上手くできなかったかなとずっとずっと反省している。感情が爆竹のようにバチバチと散ってしまうことがある。大きな音をさせながらあちこちにバチバチと飛んでしまう。これでも歳を重ねてからはだいぶ減ったのだけれど。
バチバチの理由はいつだって言いたいことを適切な時に上手く吐き出せないでいたりすること。
とにかく、感情は適切な処理のタイミングがある。それを逃すと厄介になることだけは確かだ。

2017年1月、すごい勢いでいろんな出会いがあったり、予定が入ったり、過去に蓋をしてきた問題が揃いも揃って目の前に現れたり忙しい。今年は私の行動パターンを変える年なのだろう。やらなきゃね。